1976年、大阪府生まれの写真家。
撮影した写真を毎日絶やすことなく自身のサイトで公開している麥生田兵吾の個展が開催される。
開催期間は2014年05月06日から2014年05月18日まで、京都の中京区にある Gallery PARC | GRANDMARBLE での開催となる。
Artificial S 2. "daemon"
2014年05月06日~2014年05月18日
麥生田兵吾は主題として「Artificial S」を挙げています。「Sはsense=感覚(感性)」という意味を持つことから、麥生田は「Artificial S.」を「人間の手によりつくられた感性」というような意味として捉えているものです。麥生田はこの主題「Artificial S」を補完・構成する一つの試みとして2010年の1月より、毎日撮影した写真を、撮影したその日のうちに自身のウェブサイト(http://hyogom.com)内の「pile of photographys」にアップする試みを4年以上(現在も継続中)に渡って絶え間なく続けています。これは「進まねば失い、怠れば後退する、そういった性質の感性ともいえるものを手に入れたい」、「それは瞬間瞬間に、肉体と精神に訪れ過ぎ去っていくもの」、「私はこれを、例えば表現においても、先んずるものにしたいと考えています」とした麥生田の願いに基づくものであり、それはとりもなおさず「人間(=麥生田)の手によりつくられた感性」の存在を確認するための行為とも呼べるもので、ここでは「写真」はその照査(証左)としてただ存在しているといえます。
麥生田は主題「Artificial S」を現在のところ5つに別けており、本展覧会ではその2つ目に位置づけられている“Daemon”(ギリシャ神話におけるダイモン=神々と人間の間に介在する二次的な神)をテーマとして、「人の心におさまっている正体を定めないイメージを露にする」ものです。展示されるそれぞれの写真は、いずれも我々が日常で目にする風景の一部がただ「写った」ものであり、それ自体はおよそ「意味」を持つものではありません。しかし、鑑賞者は目の前に在る「写真」を「見る」うちに、そこに「勝手」に「意味のようなもの」を「見たり」「見なかったり」します。
鑑賞者に内在する茫漠としたイメージ(想像)が、目の前のイメージ(図像)を借りて、イメージ(想像や図像や意味)を成すこと。いわば偶像崇拝にも似たこのベクトルが、鑑賞者の目に前にある「世界を写した写真」によって引き起こされる時、私たちは確かにソレ(写真あるいは世界)に出会い、ソコ(写真あるいは世界)に何かを見つけます。ただソレだけのことです。20点あまりの写真がただ在る本展で、皆さんは何を見つけるでしょう。
麥生田兵吾によるステートメント:
主題「Artificial S」。
「S」は「感覚,感性=sense」という意味を持たせています。ですから「Artificial S」は、「人間の手により作られた感性」というような意味です。
この主題は5つの章に分けられています。今展覧会はその2章目の”Daemon”。人の心におさまっている正体を定めないイメージ=daemonをみつけます。
たとえば、心をピタッと変わらないままで伝えようとすれば、向うへ届くまでの間でポロポロとたくさんのものが嘘のほうへ落ちていきます。嬉しい事を“嬉しい”と、悲しい事を“悲しい”と、かっちり決まった言葉を使っても、大きい小さいはあるものの喪失感を覚えます。りんごを「りんご」と届けても同じのようです。
写真も同じようなことが起こります。
対象が光学的なものでなければ写真にはできませんが、”このりんご”と”写ったリンゴ(写真)”は異なり、”見られて了解されたリンゴ”もまた異なります。そして写真はリンゴの姿の痕跡として大変強い確かさを与えますから、それぞれ在るはずの差異をみえにくくしています。
言葉も写真も嘘をつきます。
ですがこれも嘘です。事物には嘘も本当もなく、ただ在るだけなのだから。意味などきっとないのです。
私はある精神的にまいった時期がありました。いよいよ心が酷くなった頃に見ていた景色は”意味”がありませんでした。リンゴはただリンゴで、コップはただコップで、りんごとコップに何も違いはなく、その違いのなさにも違いはなかったのです。
文字通りの意味のない世界です。
そのような世界で写真は必要はありません。もちろん在ってよいですが写真を発見することはできないでしょう。ですからわざわざカメラを持ち出しシャッターを押す必要などあるわけがありません。完成した世界、静止した世界でした。ただそれを決定しなかったものは命です。私の小さくなった心臓が、静止した世界で動いていました。私は私の生で一番最後となる覚悟をしなければいけませんでした。
私は命を信じます。
命は静止する事から抵抗し、世界を見ます。
見ることで意味を生みだすのです。
見つけるのです。
この世界は不可能で覆われてる真っ暗闇です。しかし命は、手探りする事だって恐ろしい闇をビリビリ切り開いて進んでゆきます。この力は想像力です。
スプーンを持ち上げる事だって、階段を降りる一歩だって、歌うこと、踊ること、これらは全て想像力によるものです。想像力こそが不可能を「ソンナ事ハナイ」と否定し続けられるのものです。(こういった理由から、シャッターを押すという所作からすでに意味を感じていますので、私は写真家と名乗らずにいられません。)
嘘や本当という話しに戻りますと、実はそんなことはどうでもよいのです。ただ、そのどうでもよいことから学ばないといけない事は、言葉がただ言葉であり、写真はただ写真であるということです。私と他者との間にある点「・」、それが言葉や写真です。その「・」は正しかったり正しくなかったりしませんし、だから良いも悪いもありません。ただ、お盆にのったものをドンガラガッシャンとやってしまうような行儀の悪い「・」であればよいなと思っています。
今展覧会の「・」は「daemon」です。みなさんは何を見つけてくれるでしょう。
Gallery PARC | GRANDMARBLE
〒604-8082
京都市中京区三条通御幸町弁慶石町48
三条ありもとビル
[ル・グランマーブル カフェ クラッセ] 2階
Tel. 075-231-0706
http://www.galleryparc.com/
開廊時間: 11:00-19:00 (*金曜日は20:00まで)
定休日: 月曜日
このブログの傾向から人物が被写体となった写真を選んだのだけど、実際、麥生田兵吾が撮影しているのは日常の風景であり、それでいて都市の雑踏の中というのではないので、そこに人が偶然写りこむということはあまりない (すべての写真を見ているわけではないので違っているかもしれない)。
そこに写っているのは、朽ちていく建物やモニュメント、荒れた壁面、うち捨てられたクルマ、雑木林、忘れ去られた何か・・・・・・。
自分の好みだということもあって、そういった物が目に付くし、記憶に残るのだけど、もちろん日々撮影を続けているので、自然と季節的なものが写真に写っていて、今の時期であれば、やはり咲き誇る花が、そしてこれからは新緑が、更に繁茂する植物が写真に写ることになり、季節の移り変わりを徐々に見る側に伝えていくことになるのだと思う。
ブログを訪れた者は、ブログの性質上アップロードされたものを遡りつつ見ていくということになるのだけど、それはゆったりとしたリズムで季節を逆再生するかのように経験していくということことになるだ。
しかし、だからといって、麥生田兵吾がそういった季節の変化を見せたいという欲求を持っているとは思えない。
日本の四季をそこに見出して欲しいとかということではなく、いや、見出してもいいのかもしれないが、だけど、おそらく、そういったこととは別の何かをその中から見てもらいたいのだと思う。
もちろん、麥生田兵吾はこう見て欲しいなどとは口にしないだろうが。
ブログの写真にはあまりタグが付けられていない。
全く付けられていないというのではなく、例えば、定期的に撮影しているアシナガバチの巣作りには 「rhythm」 というタグが付けられていたりする。
しかし、そうしたタグが付けられているものは一割強で、それ以外は 「photography /as daily」 以外のタグは付けられていない。
自分であれば、建物だとか人物だとか壁面だとか雑木林だとか落書きだとかマネキンだとか人物だとか、ガシガシ分類してしまうだろう。
麥生田兵吾は分かり易く分類するということを拒否しているのではないにしても、抵抗を感じているのではないだろうか。
書いていて何を言いたかったのか分からなくなってしまったが、とにかく、個展では、見る者が勝手にしていた分類や季節というものから開放され、全く別の眼で作品を見ることが出来るいい機会となるだろう。
という訳で、いつも更新で写真を見ているという方も、是非会場に足を運んで頂きたい。
「 pile of photographys 」 | Gallery PARC | GRANDMARBLE