Gottfried Helnwein (ゴットフリート・ヘルンヴァイン)
1948年10月8日ウィーン生まれの画家、写真家、パフォーマンスアーティスト。
物議を醸す過激な表現を時としておこなう。
ゴットフリート・ヘルンヴァイン (Gottfried Helnwein) の作品は見ていると気分が滅入ってくるのでそんなに度々見返したりはしない。嫌いなのかというとそうでもなく、時たま無性に作品を見たくなることがある。どういったときに見返したくなるのだろうと考えてみたが、そういえばここ2、3年そういった気分になったことがなかったということに思い至った。そういった気分?それがどういったものなのか、音楽であれば、答は簡単に見つかりそうだ。数年に一度、思い出したように聴き返したくなるアルバムがあり、そのときの気分はすぐに思い出せるからだ。しかし、ヘルンヴァインの場合は、ここ最近は自分で好んで作品を見返すという気分が訪れていなかったということが分かっただけで、それが果たしてどんな気分だったのかはまるで思い出せない。ボクはどういった時にヘルンヴァインの作品を見返していたのだろう?
ブログを始めた頃にフランスの写真家 William Ropp のエントリを立てたことがあった。この人が撮る少女たちには鬱屈したところがあり、作品を見ていると気分がどんよりして来るのだけど、その時一緒にこのゴットフリート・ヘルンヴァインの作品もポストしようかなと思ったのだ。が、気分が乗らないのでパスをした。次にポストしようかなと思ったのは、Dino Valls の作品の2度目のエントリを立てた時だったが、この時も結局ヘルンヴァインのエントリは立てずに終わった。で、今回が3度目。
ゴットフリート・ヘルンヴァイン (Gottfried Helnwein) の作品に最初に接したのは、今回ポストした有名な包帯少女ではなく、雑誌で見たスコーピオンズの1982年のアルバム 『蠍魔宮〜ブラックアウト "Blackout"』 でだった。このアルバムのジャケットを飾っているのがヘルンヴァインの作品だったのだ。
包帯少女はどこで出合ったのだろう?思い出せない。ただ、スコーピオンズのジャケと包帯少女を描いたアーティストが同一人物だと知ったのは、ウェブ上で包帯少女に再会してからのことで、それまでは両者を結び付けて考えたこともなかった (と、このエントリをまとめた時点では思っていたのだが、後に段ボール箱にしまい込んでいた伊藤俊治の 『写真都市』 を引っ張り出してパラパラ捲っていてゴットフリート・ヘルンヴァイン論を見つけ驚いた。確かに読んだ記憶があるのにすっかり失念していたのである。包帯少女との出会いはおそらくこの本でのことになる。折を見てこのヘルンヴァイン論から一部を引用してみたい)。
"Beautiful Victim II" に代表される包帯少女は、児童虐待をテーマとした作品ではあるのだけど、一部ではそういった文脈から切り離されて、フェティシズムの対象として愛好されているのではないだろうか。と、他人事のように書いてしまったが、このエントリにポストする作品のチョイスからして、ボク自身にももちろん当てはまることだ。だけど、こういったバイアスをかけないと、ヘルンヴァインの作品はちょっとシンドイ。
包帯フェチを煩った人は昔からいて、以前は片隅の方でそういった嗜好についての情報を漁ったり実践したりしていて、他にも例えばメディカルアートの中にそういったものを求める人もいた。球体間接人形作家のなかにも、人形に包帯を巻いている人がいたように記憶しているが、記憶違いかもしれない。それが、90年代にトレヴァー・ブラウンが登場し、『エヴァンゲリオン』 の綾波レイが地上波に乗ってお茶の間に登場して以後、状況が劇的に変化したんじゃないかと思う。クリシェ化したとか記号化したとかいう印象が強くなった感じがする。といっても、検証したことがあるわけではないので、印象はあくまで印象に過ぎないのだけど。
このエントリで一枚目にポストした作品は、"Beautiful Victim II" という作品で、1974年に製作されている。ゴットフリート・ヘルンヴァイン (Gottfried Helnwein) の日本版オフィシャルサイトにこの作品へ言及したブログからの引用があり、僕は今回その文章を初めて読んだ。それは、「夢を走る」 という一文から始まっている。そこで、ああっ、と思う。すっかり忘れていた。日野啓三の本に 『夢を走る』 というタイトルの短篇集があり、この文章を書いた人は、その短篇集に収められたある作品を "Beautiful Victim II" と重ね合わせているのだ。「夢を走る」 という一文が目に入っただけで、そのことにすぐに思い至りはした。しかし、この二つの作品を結び付けて考えたことがなかったボクは、そのことがとても悔しい。
『星の流れが聞こえるとき』 というのがその短編のタイトル。登場人物は若者と少女のふたり。不安に駆られあてどなく東京の中を逃げ回っている若者が、運転中の車中から小さな白い影のようなものを見かける。それは白い服を着た小さな女の子で、若者はそれに心を強く動かされた。
下町に住んでいた小学生の頃見かけた、金魚売りの屋台が現れるとどこからともなくやって来て、またどこかへ去ってゆく白い影法師。若者はそんな少女の姿をふと思い出し、懐かしい気分に浸る。
少し脱線するが、この回想シーンは、多分この短編が書かれた当時 (1984年) に公開された押井守の 『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』 の一場面を少し改変したものではないだろうか。昔古本屋で立ち読みしただけなのでうろ覚えなのだが、ある雑誌 (多分SWITCH) に日野啓三のインタビュが掲載されていて、息子がアニメ好きで、日野自身もよくアニメを観ていた、例えば 『ダンバイン』 という作品は世界観が重層的で面白いとかなんとか答えていたと記憶している。そこから考えると、『ビューティフルドリーマー』 を見ていてもおかしくはないのではないか。
話を戻すと、車を少女に近付けた若者は、白いワンピースを着た少女がまだ七、八歳で、手足だけでなく、顔まで繃帯を巻いていることに気付く。公園で思い切って声をかけてみたが反応はなく、表情を読みとろうとした若者は少女の目を見て慄く。別れてからも白い繭に包まれた様な少女のことが気になってしまい、次の日曜日に再び少女のいた公園へと足を向けてしまう。ここからふたりの交流が始まる。会うたびに視力を失い衰弱していく少女には、草がのびる音や花が開く音やいろいろな虫が働いたりけんかする声や石にひびが入る音や樹が水を吸い上げる音などが聞こえるのだという。ふたりは週に一度、少女が録音したという何百種類もの鳥の啼き声、灯台の霧笛のようなクジラの声、風の音、木の葉の音、砂が流れる音、雨の音、川の音、海の音をラジオカセットで聞いて過ごす。ある時にはこんなこともあった。
若者にはなにも聞こえないテープがあった。「これは何も入ってないテープだ」と若者が取りかえようとすると、少女は怒った。
「これは雪の降る音よ。ことしの冬、大雪が降ったでしょ。その音をわたしが夜じゅう寝ないで録音したんだから。この音が聞こえないなんて」
日野啓三『星の流れが聞こえるとき』(『夢を走る』中公文庫より)
若者は少女のために様々な音を録音して過ごす様になる・・・・・・。
ヘルンヴァインのサイトに引用されたブログの文章の中には、『星の流れが聞こえるとき』 がヘルンヴァインの絵に影響されて描かれた作品ではないかという推測がなされている。日野啓三がヘルンヴァインに言及したことがあるのかどうかは不明とのこと。言及したことがあってもなくても、この作品はヘルンヴァインの作品をフェティシズムの罠に嵌ることなく、その影響を昇華できた作品だと思いたい。
ポストした作品は、
"Beautiful Victim II" (1974)
"Lichtkind (Child of Light)" (1976)
"The Disasters of War 3" (2007)
"The Murmur of the Innocents 4" (2009)
の4点。作品は古い順になっている。こうして見ると、70年代と00年代の間に何が変わったのかよく分かるのではないだろうか。
書き終わった後、件のブログを訪ねてみた。「夢を走る」 というのはエントリのタイトルであり、文章の書き出しではなかった。確認してよかった。ヘルンヴァインのサイトでも内容は読めるが、Trust : 夢を走る で直接読んでみるのもいいだろう。
《関連エントリ》
traveling with the ghost: William Ropp
traveling with the ghost: Dino Valls 02
traveling with the ghost: Dino Valls
Gottfried Helnwein | | | ゴットフリート・ヘルンヴァイン オフィシャルサイト
Wikipedia
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