Friday, May 26, 2006

Balthus











Balthus (バルテュス)
本名は Balthasar Klossowski de Rola (バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ)。
1908年2月29日にパリで生まれ、2001年2月18日にスイス南西部にあるヴォー州 (Canton de Vaud) のリヴィエラ・ペイ・ダンオ郡 (Riviera-Pays-d'Enhaut) 中部のロシニエール村 (Rossinière) にて没。
フランスの画家。

クロソウスキー家は元々ポーランド貴族の家系だったそうなのだが、19世紀の中頃、ロシアの侵攻で故郷を追われて一家は西へと逃れている。
バルテュスの父エーリヒ・クロソウスキー (Erich Klossowski) はプロシアで生を受け、画家となり、1908年に19世紀のフランスの画家オノレ・ドーミエ (Honoré Daumier) のモノグラフを出版して美術史家として知られるようになった。
母親のバラディーヌ・クロソフスカ (Baladine Klossowska) はプロシアのブレスラウ (Breslau、現在はポーランド領) においてエリザベート・ドロテア・スピロ (Elisabeth Dorothea Spiro) として生を受けた。
ふたりは結婚後、パリへと移り住み、バラディーヌは画家としてのキャリアをスタートさせている。
夫婦はパリで二人の息子を儲けたが、第一次世界大戦中に別れ、別々の人生を歩み始めた。
1919年、バラディーヌはライナー・マリア・リルケ (Rainer Maria Rilke) と出会い、その後しばらくして交際に発展。
バラディーヌがメルリーヌという愛称で呼ばれるリルケ最後の恋人としてリルケが亡くなるまで連れ添ったということは、リルケの愛読者ならご存知の方も多いだろう。

バルテュスの3歳年上の兄は 『ニーチェと悪循環』、『生きた貨幣』 といった評論を著した特異な思想家として知られ、また、マルキ・ド・サドやニーチェの翻訳家、あるいは、『ロベルトは今夜』、『バフォメット』 といった小説の著者としても知られるピエール・クロソウスキー (Pierre Klossowski) で、晩年には妻をモデルにデッサン画を多く描いた。


バルテュスはパリで生まれ幼少期を過ごした。
1914年に第一次世界大戦が始まると、両親がドイツのパスポートを持つ外国人――つまりドイツ国籍の敵国人――であったことから国外退去を余儀なくされ、家族とともにベルリンに移り住んだ。
1917年、両親が離婚し、母親と兄と一緒にスイスのジュネーヴに移住。

1920年、12歳のバルテュスは行方知れずになった愛猫ミツ (Mitsou) の思い出を40枚のスケッチに描き、翌1921年、そのスケッチブックがリルケの序文付きで出版された。
リルケが序文を書くに至った経緯はおおよそ次の通りである。
『マルテの手記』 を完成させた後極度のスランプに陥っていたリルケは、1912年のある日、何かの啓示に導かれるようにして 『ドゥイノの歌』 の 「第一の悲歌」 全篇とそれに続く 「第二の悲歌」 の全篇、そして 「第三の悲歌」 と 「第十の悲歌」 の冒頭を完成させるが、啓示の導きはそこで途絶えてしまった。
是が非でも 『ドゥイノの歌』 を完成させたいという渇望。
リルケはこの詩を完成させるに相応しい創作環境を求めてヨーロッパ各地を転々とする放浪生活を送る。
スペイン、パリ、ミュンヘンとヨーロッパを巡る中で 『ドゥイノの歌』 は書き継がれ、1919年の初夏頃スイスに辿り着く。
そして、友人の紹介でベルクの館にやってきたのが1920年11月のこと。

 スイスのイルヒェル近在のベルクの館。一九二〇年十一月、一人の詩人が一冊の素描集を眺めている。
 「いったい人間は猫たちの同時代者だったことがあるのだろうか?――これは疑わしい。私は敢えて保証するが、ときどき、薄闇の中で、隣家の猫が私に気づかずに、それとも面喰っている事物たちに向かって、私などは存在していないのだということを証明するために、私の体をつきぬけて跳んでゆくようなことだってあるのだ」 と考えている。
 いま、一人の子供のことを思い、自らの漂泊を回想しているのはリルケである。スイスに来る少し前に、晩年に親しく交際した、バラディーヌ・クロソフスカという女性から一冊の素描集を渡された。息子の描いた、"Mitsou" という名の猫の物語絵であった。
- 酒井忠康 「バルテュス譚詩 『嵐が丘』 の挿絵をめぐって」
(阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より)

バラディーヌ・クロソフスカの息子というのは、もちろん、バルテュスを指す。
ベルクの館は申し分ない環境であったのにもかかわらず、詩の創作は低調で、リルケが半年の滞在期間中にものにすることができたのは 『G・W伯の遺稿より』 という、『ドゥイノの歌』 からは独立した詩群だけだったという。
バルテュスのスケッチ集へ寄せた序文はそういった状況の中、リルケとしては珍しくフランス語で執筆された――いや、珍しくというか、リルケが生前公開した唯一のフランス語で書かれた文章だったそうで、フランスの詩人で劇作家としても活躍したシャルル・ヴィルドラック (Charles Vildrac) に宛てた手紙では、

私はおおいにこの文を自慢に思っているのです。と申しますのは、わたしがそれをフランス語で考えたと言えるからです
- ライナー・マリア・リルケ 「シャルル・ヴィルドラックへの手紙」
(『リルケ書簡集』 第3巻より)

と幾分誇らしげに語っている。
バルテュスのスケッチ集 『ミツ』 は1987年に日本でも出版されたが、生憎手元にその本はない。
しかし、上に引用した酒井忠康のエッセイに、リルケの 「猫」 という富士川英郎が訳した散文詩かエッセイの一部が引用されていて、それが 『ミツ』 の序文の一部では?と引用文が収録されている全集の端本を取り寄せてみたところ (なぜ素直に 『ミツ』 を取り寄せてないのか?)、その予想は当たっていた。
底本の全集には "Chats" というフランス語のタイトルで収録されている 『ミツ』 の序文は、富士川英郎が編纂した 『リルケ全集』翻訳版第9巻  《エッセイ・文芸論》 に 「猫」 というタイトルで収録されていて (直訳すると 「猫たち」 となり、リルケの母国語、つまりドイツ語だと、猫は katze で、複数形の場合 katzen となる)、読んでみると、前半は人と猫との関わりみたいなことが書いてあり、それが導入部となって、バルテュスと飼い猫ミツの話へ繋がっていく。

 バルテゥスが (彼はそのとき十歳になっていたと思う) 一匹の猫を見つけた。それはあなたがたもたぶんご存じのニヨンの館での出来事だった。ひとびとはこのふるえている小さな発見物を携えてゆくことを彼に許した。こうして彼は猫といっしょに旅行することになったのである。船のなかでも、ジュネーヴに到着したときも、山の手へたどり着いたときも、電車にのったときも、彼は猫をつれていた。バルテュスは、この新しい仲間を家庭生活へ導きいれた。彼は猫を馴らし、甘やかし、可愛がった。 《ミツウ》 はその提供された身分に喜んで身をまかせ、時どき、ニ、三のおどけた無邪気な即興のしぐさで、家庭生活の単調を破ったりしたのだった。
- ライナー・マリア・リルケ 「猫」
(『リルケ全集』 第9巻  《エッセイ・文芸論》 より)

こうして気まぐれな子猫はバルテュスたち家族の中に溶け込んでいったのだが、ある日、突然姿が見えなくなり、家中大騒ぎ。
といっても、この時は、幸いにも子猫はすぐに見つかって、またバルテュスの日常はミツのいる元の楽しいものに戻り、一年半近くバルテュスと共に過ごしたのである。
しかし、1919年のクリスマス、浮かれたバルテュスが食べすぎで体調を壊し床に臥せっていた数日の間に、ミツは、おそらくは遊び相手のバルテュスがおらず暇を持て余したため、一匹で冒険に出かけ、その勢いでそのまま何処かへと旅立ってしまった。
家族は八方手を尽くしてミツを探したが、ついに見つけ出すことは出来ず、バルテュスは皆の前で泣いたという。
リルケはそういった出来事を慈しみを込めて綴った後、こう続けるのだ。

 ひとつの事物(もの)を見つける。これはいつも愉快なことである。一瞬前までそれはまだなかったのだから。だが、一匹の猫を見つける、これは途方もないことなのだ。なぜなら――まあ、反対しないでもらいたい――例えばなにかの玩具がそうするように、猫はあなたがたの生活のなかへすっかり入りこんでしまうことはないのだから。猫は依然として少しばかり彼方にいる。 (・・・・・・)
 ひとつの事物(もの)を失う。これはずいぶん悲しいことだ。その事物は悪い状態に置かれるかもしれない。何処かが毀われて、その権威を失ったまま、果ててしまうかもしれない。だが、一匹の猫を失う?否、これはあり得ないことなのだ。いままで猫を失った人は誰もいないのである。私たちは一匹の猫を、生きものを、ひとつの生きた存在、ひとつの生命を失うことができるだろうか?だが、ひとつの生命を失う、それは死だ!
 そう、それは死なのだ。
 見つける。失う。あなたがたは喪失ということをよく考えてみたことがあるだろうか?喪失とは単にあなた自身が疑っていなかったひとつの期待をみたしにくる好意ある瞬間が否定されることではない。なぜなら、この瞬間と喪失との間には人々がいつも――不器用に、と私は思っているが――所有と呼んでいるものがあるのだから。
 ところで喪失は、それがどんなに残酷であろうとも、所有に対してはなにもできないのである。喪失は所有を完結する。お望みとあらば、喪失は所有を確実化すると言ってもいいだろう。結局、喪失は第二の獲得なのである。こんどは非常に内面的で、別の強さをもった獲得なのである。
 バルテゥスよ、けれども君はそれを知ったのだ。もはやミツウが見えなくなって、きみは彼をよりよく見るようになったのだから。
- ライナー・マリア・リルケ 「猫」
(『リルケ全集』 第9巻  《エッセイ・文芸論》 より)

 「ひとつの事物(もの)を見つける。 (・・・・・・) 猫は依然として少しばかり彼方にいる」 まては、酒井忠康がエッセイに引用しており、一読した折、さすがリルケ、上手いこと言うなあなどと呆けた印象を持っていたのだけど、少年をいたわり慰める内容が続くのかと全集でその先を読み進めると、慰めるどころか少年バルテュスに弁証法を叩き込むリルケに出会う事態に、え、そういう流れになるの?と吃驚することになる (不幸にも、ここを読んでしまった方の中で、酒井忠康のエッセイを読んだことがあり、それでいてその序文全体を読んだことがないという方は、残念ではあるが驚く権利を失ってしまった。未来においてその立場に立つ方も然り。まあ、たいした問題ではないので、気にする人はほとんどいないだろうし、そんなことでいちいち驚くほどナイーヴではないと思われる方が大半だと思うが)。
リルケは、少年バルテュス (と、この本を手にするであろう子供たち) に向けて書かれたかに思える序文について、先程も引用したシャルル・ヴィルドラックに宛てた手紙で、

わたしがこの書物を子供たちだけに与えるつもりではないことを、この序文はあなたに証明するでしょう。ときとしてまったく無造作な、このようなスケッチの言語は、大人たちの関心も充分に惹きうることでしょう
- ライナー・マリア・リルケ 「シャルル・ヴィルドラックへの手紙」
(『リルケ書簡集』 第3巻より)

と述べていて、この本を子供へのプレゼントとして手にするであろう大人にも届くよう考えて書かれていたのだということが分かって興味深い。
いきなり脱線気味の話題を長く引っ張ってしまったが、バルテュスの作品には猫が描かれていることが多く、澁澤龍彦が 「危険な伝統主義者」 というエッセイで、

 余談にわたるが、子供のころに大そう可愛がっていた、この死んだアンゴラ猫の思い出が、その後のバルテュスの作品にも、しばしば出てくることに注意したい。少女のいる薄暗い室内に、ひっそりと猫のすわっている絵がいくつかある。ドラクロワやボードレールのように、バルテュスの貴族趣味も、たえず猫の魅力に惹かれていたのかもしれない。
- 澁澤龍彦 「危険な伝統主義者」 (『幻想の彼方へ』 より)

と指摘しているように、それはバルテュスが子供の頃に可愛がっていたターキッシュアンゴラ (アンゴラ猫) のミツの記憶の反映のように思われるので、少々脱線した内容も含めてまとめてみた。


さて、バルテュスが本格的に絵を描き始めたのは16歳頃のことだった。
画家であった父エーリヒの家に出入りしていたアンドレ・ドラン (André Derain) やアルベール・マルケ (Albert Marquet) といったフォーヴィスム (野獣派) の画家、ナビ派の画家のピエール・ボナール (Pierre Bonnard) らに可愛がられ、絵を描くうえでも影響を受けている。
といっても、直接指導を受けたというのではなかったらしく、絵を描くこと自体はルーヴル美術館で古典絵画を模写するなどしてほぼ独学で学んだのだという。

1924年にパリのドリュエ画廊でバルテュスの最初の個展が開催されたらしいのだが、この時はなんら注目を集めることはなかった。
1926年、バルテュスはフィレンツェを訪問し、滞在中は初期ルネサンスの巨匠たち――その中でも特にピエロ・デラ・フランチェスカ (Piero della Francesca) ――の作品の研究に励み、大きな影響を受けている。
1927年にスイスのベルン州 (Kanton Bern, Canton de Berne) 南東部にあるインターラーケン郡 (Interlaken) の片田舎、ベアテンベルク (Beatenberg) のプロテスタント教会の壁画をテンペラで描いたが、そこにはピエロ・デラ・フランチェスカからの影響がみられたという。
しかし、この壁画は描かれた七年後に聖像破壊運動を掲げた牧師たちによって破壊されてしまい、現在は壁画それ自体が残っていない (Beatenberg: Evangelisch-reformierte Kirchgemeinde / Kirche Balthus-Fresken に事のあらましと当時撮影された壁画の写真があるので興味のある方はどうぞ。※ただしドイツ語)。

バルテュスは1930年からモロッコで暮らしていたが、現地で徴兵され、1932年まで秘書として働いた。

退役後パリに戻ったバルテュスは、1934年、ピエール画廊で個展を開催。
アントナン・アルトーやアンドレ・ブルトンといったシュルレアリストたちに発見され、注目を集める。

バルテュスは、まず光の形を描く。壁や床や椅子、あるいは皮膚の光によって、彼は私たちに、そのざらついた面と共に浮き出してくる一つの性器を持った身体の神秘のなかにはいり込むように誘うのである。
- アントナン・アルトー 「ピエール画廊におけるバルテュス展」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

引用したのは、画家バルテュスを論じた文章としては最も早いもののひとつとして知られるアルトーの 「ピエール画廊におけるバルテュス展」 の一節。
アルトーはこの一節にの後に、展示会に出品されていた 《キャシーの化粧》 がクルーペの 《画家のアトリエ》 の一部を下敷きにした作品で、リアリズムを基調としていながら、まるで夢想の様に見る者に迫る作品となっていることの驚きについて述べているが、驚かされるのは、やはり、この段階ですでにバルテュスの作品における光に注目しているという点だろう。

この個展を開催したピエール画廊オーナーのピエール・ロエブは、友人の紹介で初めてバルテュスのアトリエを訪れた時のことを後に回想している。
ロエブはその当時、写実主義的で見る側に新しい表現の登場を感じさせる作品に久しく出合っていなかったそうで、そんな中で目にしたバルテュスのタブローの一群に驚嘆し衝撃を受け、特に強烈な印象を残す 《街路》 については、

 構図をつつみこむ暖かな小麦色の光の中で、人物たちは行き交う。この場面はとこで起きているかは知らないが、この通りは、画家の住んでいたフェルステンペルグ広場からジャコブ街へ抜ける道であるようだ。
 スーラの 《グランド・ジャット島》 の人物たちと同じに、ここでも人物たちは立ちすくんでいるが、「ポーズ」 のうちにでなく、「スナップ」 のうちになのだ。ドガの人物たちのように、動いている最中、行動している最中に捉えられているのではなく、その場で石と化したかのようだ。
 (・・・・・・) 一人の少年が進んでいく。彼の視線は夢のなかに迷い込む。彼の腕の振りが、自動人形の仕草さながら停止するかたわら、その夢をこわしてはならないと無意識に遠ざかる少女は、自らの夢を追ってゆく。
 ……役者たちがみな夢遊病者であるかのような、そんな不思議な夢を見ている気がする。造型的な平衡とリズムが、着想と完全に合致するこの完全な構図からは、不安を引きおこす雰囲気がかもしだされる。
 ……この驚くべきタブローは、夢への逃避と、夢遊病の過程を経ての、明日の現実への回帰とのあいだの、一つの中継的段階の道しるべをなすのである
- ピエール・ロエブ 《街路》
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

と、見る者に不安を与え、だけども心惹かれてしまう 《街路》 という作品の魅力について上手くまとめており、これを以て嚆矢とす、なのかは不明だが、その後多くの人が 《街路》 の魅力について異口同音に語ることになる指摘の最初期のものといえよう。
そして、ロエブが指摘した動作の瞬間を捉えたというよりは、その世界そのものが石化してしまったかのようだという 《街路》 のこの特徴は、 この作品だけの特徴に留まらず、その後のバルテュスが描くことになる作品の際立った特徴ともなり、多くの人はこの作品の特徴をバルテュスの作品の特徴へと敷衍したかのように語ることになる。
例えば、アルベール・カミュ (Albert Camus) がバルテュス展に寄せた文章。

バルテュスはモデルに限りなく密着して選びとり、感動を、また情景を定着するのだが、その精確さたるや、まさに一枚の鏡を透かして、一種の魔法の力で、永久にではなく五分の一秒間、過ぎてしまえばまた動き出すようなほんの束の間だけ石と化した人物を眺めているような気がするほどである。
(・・・・・・) バルテュスを通じてわれわれが学ぶのは、これまで自分が現実の見方を知らなかったということであり、我々のアパルトマン、なじみの人びと、なじみの街路が、実は不気味な相貌をひそめているのにわれわれはそれに眼を閉ざしていたということなのだ。
- アルベール・カミュ 「忍耐強い泳ぎ手」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

あるいは澁澤龍彦の次の件。

 もう一つ、バルテュスの世界を特徴づける顕著な傾向は、その描かれた人物たちの姿態に見られる、運動の束の間の欠如であろう。彼らはいずれも、あたかも活人画の人物のように、一瞬、運動を停止して凝固したかのような、不自然な宙ぶらりんの状態に釘づけにされている。しかも、この状態は永遠につづくとは思われず、やがて数秒後ないし数分後には、彼らはふたたび運動を開始するであろうことを確実に予想させる。つまり、描かれた世界はあくまで一時的な、休止の状態、猶予の状態なのだ。これがバルテュスの作品世界に、あの何ともいえない不安定の感覚、あるいはまた、取りつく島のない、奇妙なよそよそしい、一種の疎外の感覚をあたえる、主要な要因でもあろうかと思われる。
- 澁澤龍彦 「危険な伝統主義者」 (『幻想の彼方へ』 より)

このように、ロエブの指摘をなぞるがごとく、カミュ、澁澤は、 《街路》 に代表されるバルテュスの諸作品において顕著な傾向――日常の裂け目から垣間見えた世界の不安感や不気味さ、あるいは、流れゆく日常の一瞬を切り取ったというのではなくまるで時が凍りついたとでもいうべき世界が描かれているという印象を語っている。
バルテュスの作品にそのような傾向があるというのは確かにそうではあるのだが、それが最も分かり易いかたちで見て取れるのは、やはり、 《街路》 で、詩人であり、美術評論家としても活動した岡田隆彦は、一見、平凡で何の変哲もない光景を描いたかに見える作品 《街路》 には、

(・・・・・・) それでもなお不思議な雰囲気がただよっている。画面のなかで往きかう人びとや佇んでいる人、道端で遊んでいる子供たちは、おのずから互いに見較べられながら見られていることになるので、それゆえ一つ一つの図像にたちかえって見るとき、不自然な仕草でとらえられているようにうつる。いずれも硬直している感じだ。それは、画面のほぼ対角線上に見える大きな道具を肩にのせて、道を横切ろうとしている大工の姿によくあらわれているが、いずれの人物像も、写真と同じように、じっさいには変化しながら継続しつつある動作の瞬間を、停止させてとらえたものになっているせいかもしれない
岡田隆彦 「醒めて夢みる――バルテュス」 (『夢を耕す』 より)

からだと述べ、そして更に、持続する時間の一瞬を捉えたというのではなく、それが停止させられているところを描いたような、その化石のように硬直した人物像は、ジョルジュ・スーラ (Georges Seurat) の 《グランド・ジャット島の日曜日の午後 (Un dimanche après-midi à l'Île de la Grande Jatte)》 からの影響があるのだろうと、その特異なスタイルの来歴を考察している。
バルテュスの作品の停止した時間や石化した人物といった特徴は見る者に不思議な印象を与える、あるいは不安感や疎外感を与えるという印象論に終わらず、時間の問題として捉えなおした坂崎乙郎は 「見えぬものと見えるもの」 というエッセイの中で、

 通常、私たちは絵のなかに、事物と空間の関係をたずねようとする。時間は一応外されている。
 ところが、クルーペのレアリスムを学んだバルテュスの制作に一貫しているのは、疑いもなく時間の問題で、エロティシズムだけが彼の本領ではない。初期の 〈街〉 でも、時間は停止して、通行人の奇妙な動作が今度は時計の針と逆に始まりそうな気配である
- 坂崎乙郎 「見えぬものと見えるもの」 (『画家のまなざし』 より)

と、 《街路》 を例に語り始め、ついでガエタン・ピコンの著書から《街路》 と同じく初期を代表する作品 《山》 における時間の問題に触れた部分を引用し、バルテュスが 《山》 で何を目指したのか語っていく。
こちらもこのまま 《山》 に話を移したいところだが、もう少し 《街路》 についてのまとめを続けたい。

さて、《街路》 は、ピエール・ロエブが言うように、バルテュスが当時住んでいたパリ第六区のオデオン近くのフェルステンペルグ広場からジャコブ街へ抜ける道を舞台にしている作品ということが知られている (その場所を舞台にバルテュスへのオマージュを捧げた作品を制作した写真家もいるので、その内エントリを立てる予定)。
こういうと、画家の生活している周辺で、身近だから作品の舞台として選ばれたと思われるかもしれないが、どうもそう単純なものではないらしく、峯村敏明が 「表皮―眼差し―光―表皮」 というバルテュス論において、どうしてその場所が作品の舞台として選ばれたのか考察しているので、そちらに付き合ってみたい。
峯村はその考察の前段として、まず、バルテュスの作品の主題を 「街頭の黙劇」、「挑発の少女」、「夢の少女」、「風景」 の四つに分類し、《街路》 は 「街頭の黙劇」 に該当する作品としている。
四つに分類した主題の一つといっても、「街頭の黙劇」 を主題とした作品は他の主題ほど多くはなく、多く見積もっても十点ほどで、「バルテュスらしさ」 のある作品となると、《街路》 とその19年後に 《街路》 を反復するように描かれた 《コメルス・サン・タンドレ小路》 があるくらいだという。
とはいえ、二十年近くを経て同じ主題の作品が扱われるということは、バルテュスにとってこの主題が重要な意味を持つもつことの表れだったのではないか、というのが峯村の主張で、この二作の共通点を二つ挙げている。

(・・・・・・) 一つは、すでに引用したカミュの言葉が的確に伝えているように、日常世界に起こる一瞬の凝固、宙吊りの時間が喚び起こす神秘的な雰囲気であり、第二は、黙劇の舞台が、いずれも、前方を建物でふさがれた中ぐらいの奥行きを持つT字形の街路だということである。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

一つ目に挙げられた共通点は、ロエブの指摘を皮切りに複数の人が異口同音の印象を語っていることをカミュ、澁澤、岡田、坂崎の引用から確認したところなのでおくとして、ここで注目したいのは二つ目の黙劇の舞台が類似しているという点である。
《街路》 と 《コメルス・サン・タンドレ小路》 がバルテュスが住んでいた場所の近所を舞台にした作品であることは、バルテュスのファンにはよく知られていることかもしれない。
《街路》 だけなら、近所の街路をたまたま作品の舞台として描いたというだけで終わったかもしれないが、およそ二十年後に同じ場所を舞台にした 《コメルス・サン・タンドレ小路》 を描いたとなると、それは果たして偶然であったのか、いや、あのT字形の街路には舞台として選ばれる何がしかの理由があるのではと考える人も出てくる。
どうしてその場所が作品の舞台として選ばれたのかという疑問。
峯村敏明は生じたこの疑問に回答を導き出すに当たって、バルテュスの1926年のフィレンツェ滞在に注目し、そこからこのふたつの黙劇の舞台についての考察をおこなっていていく。
美術史などに明るいとはとてもいえない者が読んでも面白い考察だったので、峯村がどう考察したのか、ここでもう一度辿ってみたい。

1926年のフィレンツェ滞在中、バルテュスが研究した画家として名前を挙げられるのはピエロ・デラ・フランチェスカである。
実際、バルテュスがフィレンツェで最も熱心に研究したのはピエロ・デラ・フランチェスカであるのは間違いないようなのだが、ピエロ以外の初期ルネサンスの巨匠たち、例えばマサッチオ (Masaccio)、ジョット・ディ・ボンドーネ (Giotto di Bondone)、シモーネ・マルティーニ (Simone Martini) らの作品にも大きな関心を示し、研究したのだそうだ。
峯村によると、《街路》 という作品を語るうえで最も重要なのはピエロ・デラ・フランチェスカではなく、ピエロよりも半世紀前に活躍した画家マサッチオだという。
ヴァザーリは 『ルネサンス画人伝』 の中で、マサッチオは26歳という若さで夭折したにもかかわらず、その天才は、後進の画家に大きな影響を与えたとして、サンドロ・ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、ラファエロ・サンティなどルネサンス絵画の巨匠たちの名前を三十人近く列挙している。
マサッチオが生前最後に手掛けていたのは、商人フェリーチェ・ブランカッチから依頼を受けて手がけたサンタ・マリア・デル・カルミネ教会 (Basilica di Santa Maria del Carmine、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂) のブランカッチ礼拝堂 (Cappella Brancacci) の壁画で、同じく依頼を受けた画家マゾリーノと協力して1425年頃から制作にあたっていた。
『聖ペテロ伝』を主題とした連作の壁画は十二枚 (あるいは十二枚以上) のパネルで構成されるものになったが、マサッチオは、この壁画の制作中に所要で訪れたローマで亡くなってしまい (この旅に赴いた時点でブランカッチ礼拝堂の壁画の制作を放棄したというのが通説らしい。また、マサッチオの死亡原因の一つとして、マサッチオの才能に嫉妬した画家によって毒殺されたという伝承もあるという)、マゾリーノも途中で制作を放棄してしまったため、その後数十年にわたって放置されたままの状態となったが、1480年代になってフィリッピーノ・リッピ (Filippino Lippi) の筆によってようやく完成をみた。
この連作の壁画でマサッチオが制作したひとつに 《聖ペテロの跛者の治癒とタビタの蘇生 (不具者の治癒/タビタの蘇生)》 という作品パートがあり、この作品の右半分のパートがバルテュスが 《街路》 を制作するうえで重要な役割をはたしているのではないか、というのが峯村敏明の考察で、

マサッチョというなら、何はおいてもまず、ブランカッチの二つの壁画に描かれた 《不具者の治癒/タビタの蘇生》 と 《己れの影で不具者らを癒す聖ペテロ》 の二つの画面を重ね合せてみるべきであろう。衝撃的なまでにバルテュス的 「街頭の黙劇」 の原像があらわれてきはしないだろうか。T字路の空間布置。そのなかで、別々の物語、別々の時間系をすれ違って生きる、奇妙に散漫な群像たち――ただし、この散漫さは前景がマソリーノの筆になることからきた怪我の功名的な効果かもしれない――。そして、聖ペテロ (の影) の夢幻的なあらわれ、その姿勢、その眼差しは、《街路》 における丸顔の男に、まさに影のごとく乗り移ってはいないだろうか。ついでに指摘すれば、フランスではけっしてありふれた光景とはいいがたい 《街路》 のなかの子供を横抱きにした女性の姿。あれも、ブランカッチのもう一つの画面 《聖ペテロの共有財産の分配》 に描かれた最も印象的な母子像を思わせずにはおかない。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

と述べている。
與謝野文子によると、バルテュスの作品には過去の西洋美術や童話から多くの引用や借用があって、バルテュスを研究する学者たちの発掘熱を駆り立てているのだというが、音楽や映画や文学の世界でのそういった発掘作業に心踊らされている者としては、峯村敏明のこの考察は読んでいて非常に楽しい。
峯村は続けてこう書く。

 マサッチョの壁画は、明らかに、一個の絵画的装置の丸ごとを、五百年後の一フランス人青年に贈ったのである。その装置の生かしどころとして、バルテュスが周到に選んだのが、オデオンに近いT字路のある一郭であった。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

つまり、恩寵めいたギフトがマサッチオからバルテュスへ、五百年の時を超えて贈られ、バルテュスにはそれを活かすだけのものがあったのだと。
バルテュスが住んでいたオデオン近くのフェルステンペルグ広場からジャコブ街へ抜ける道が何故作品の舞台として選ばれたのか、という疑問については、これで一応の回答が示されたことになる。
しかし、その場所がすぐに舞台として選ばれたというのではなく、1933年の 《街路》 を制作するに至るまでに、いくつかの試行錯誤がなされた。

バルテュスは 《街路》 を描く前、少なくとも三度違う場所を舞台に 「街頭の黙劇」 を描いているそうで、ポンヌフ、オデオン広場、セーヌ河岸がそれぞれの作品の舞台として選ばれたと峯村はいう。
その情報を基に作品と照らし合わせてみたところ、《ポンヌフ "Le pont neuf"》 (1927)、《オデオンのカフェ "Café de l'Odéon"》 (1928)、《河岸 (ポン・ヌフの近くの堤) "Les Quais (la berge pres du Pont-Neuf)"》(1929) がどうやら 「街頭の黙劇」 を試みた作品らしいということが判明。
もう一点、《リュクサンブール公園 "Jardin du Luxembourg"》 という作品があり、この作品も 「街頭の黙劇」 を試みた作品に入れていいのではないかと思ったが、峯村によると、先の三点とこの作品の間にはフィレンツェ滞在時の初期ルネサンス絵画との遭遇体験以前/以後という大きな切断があり、ボナールやアンリ・ルソーからの影響が依然強く残っている 《リュクサンブール公園》 は、まだ 「黙劇」 という主題が確立するに至っていないという。
とはいえ、先の三点もまたボナールとスーラからの影響の混合から脱していない作品ではあるのだ。
では何が違うのかというと、「そこにあらわれた不器用な人物の姿態、宙吊りの時間の気配、光の効果の恍惚」 といった特徴は、フィレンツェで初期ルネサンス絵画を研究する中、それらのアウラに当てられるかのように絵画の神秘を追体験したことで初めて得ることができたもので、当然体験前に制作された 《リュクサンブール公園》 にはそれがないということになる。
《ポンヌフ》、《オデオンのカフェ》、《河岸 (ポン・ヌフの近くの堤)》 の三点はまだぎこちないながらも 「街頭の黙劇」 という主題を試みた作品で、《リュクサンブール公園》 はその主題が明確ではない作品であるという評価が妥当かどうか、素人目には判断が付かないのだが、それはそれとして、つまり、バルテュスは、フィレンツェ滞在によって 「バルテュスらしさ」 を獲得する機会を得たという訳だ。
こうして、バルテュスの作品を評価する上での判断基準の一つ、フィレンツェ滞在以前/以後が導入される。



ここで改めて 《リュクサンブール公園》 という作品を確認してみたところ、"Balthus" というサインの横に 「28」 という数字が記入されているのが分かる。
この数字の意味するところは何であろうかと考えてみると、色々な答えが考えられなくもないが、やはり、1928年に完成したという意味のサイン、というのが正解に思える。
峯村は、フィレンツェ滞在以前の、初期ルネサンス絵画との遭遇体験を経ていない、まだ 「黙劇」 という主題が確立されていない作品として 《リュクサンブール公園》 を 「街頭の黙劇」 を試みた作品という枠組みから排除したはずである。
何故制作された年にこだわるのかというと、つまり、仮に 《リュクサンブール公園》 が1928年に完成した作品だとすると、フィレンツェでの初期ルネサンス絵画研究の途上で 「不器用な人物の姿態、宙吊りの時間の気配、光の効果の恍惚」 といった特徴を獲得する以前の、「ボナールやアンリ・ルソーの面影が際立っていて、「黙劇」 の主題さえ明確ではない」 作品であるという、峯村の上述の考察に齟齬が生じるのでは?という疑問が湧くからなのだ。
気になって先に進めないため、《リュクサンブール公園》 が制作された年を調べてみたが、1925年頃というものから、1925年から1927年にかけてというもの、そして1928年制作の作品と三つの異なった情報があり、一体どれが正しいのか現状では藪の中という事態になってしまった。
瑣末なとこなのかもしれないが、どうもモヤモヤしてしまう。

また、峯村は 《聖ペテロの跛者の治癒とタビタの蘇生 (不具者の治癒/タビタの蘇生)》 について、この作品はマサッチオとマゾリーノの二人が制作し、前景をマゾリーノが、それ以外はマサッチオ描いたとしているが、現在ではこの作品の制作者はマゾリーノとほぼ確定されており、この作品のマサッチオが描いたとされてきた部分については、岡崎乾二郎の 『ルネサンス 経験の条件』 によると、マゾリーノがマサッチオの作風を模倣して描いたものに間違いないというのだ。
《聖ペテロの跛者の治癒とタビタの蘇生 (不具者の治癒/タビタの蘇生)》 からバルテュスが影響を受け、いくつかの試行を経て 《街路》 で 「バルテュスらしさ」 を獲得した 「街頭の黙劇」 を描いたというのはその通りだろうし、フィレンツェ滞在以前/以後でバルテュスの絵に不可逆的な変化が起きたというのもその通りだろう。
しかし、峯村はマサッチオが描いた《聖ペテロの跛者の治癒とタビタの蘇生 (不具者の治癒/タビタの蘇生)》 と 《己の影を投じて病者を癒す聖ペトロ (己れの影で不具者らを癒す聖ペテロ)》 の二作が特にバルテュスの 「街頭の黙劇」 を思わせる作風に影響を与えたのではないかとして論を進めているため、マサッチオが描いた作品だという前提が崩れた場合、マサッチオを特権的な地位に置いた論考の、「マサッチョの壁画は、明らかに、一個の絵画的装置の丸ごとを、五百年後の一フランス人青年に贈ったのである」 と言わしめるまでの流れが茶番めいたものとなってしまう。
研究が進むにつれ美術史に修正が加えられていくというのはよくあることなのだろうし、そのことによって成り立たなくなってしまう考察が出てくるというのもよくあることなのだろう。
今回の場合、その修正で考察のすべてが瓦解するというものではないにしても、部分的には齟齬が生じているように思われる。
素人にはそれをどう処理したらよいのか解決する方法がないので、やはりここでもモヤモヤしてしまい、その状態のまま数冊の本とネットの検索で補強しながらあれこれ考えてしまうものだから、袋小路でグルグルという状態に陥ってしまった。
埒が明かないので、とりあえずこれらの疑問は棚上げ、ということにしておく。


とにかく、幾つかの疑問はあるにしても、フィレンツェ滞在以前/以後という切断がバルテュスの作品にあることは確かだと思うので、それがバルテュスに何をもたらしたのか、「バルテュスらしさ」 とは一体何を指しているのだろうか、という辺りをみておくことにしたい。

《街路》 は第一作からして決定的な離陸を果たしている。筆触と色彩はまだアンチミスト風の淀みを残しているのに、仕組まれた黙劇の特異な不自然さが特異な空間の布置と結びついて、独自の絵画世界を開きはじめているのである。マサッチョの絵画装置とパリ街路との重ね合せ以外に、この離陸の秘密を司ったものがほかに考えられようか。この重ね合せから浮かび上がってくる視覚の構造こそ、T字型の空間がもつ断ち切られた (緩和された) パースペクティヴであり、またこの奥行きの切断を空間の全方位において徹底させる装置としての、眼差しのすれ違い (と移送) なのである。
 しかり。バルテュスが画家としての生涯の初めにマサッチョから譲り受けた絵画的装置とは、奥への見通しの暗示と同時にそれを遮断するものの現前が画面にもたらす、あの絵画独特の 「表皮」 の両義的な働きであった。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

「バルテュスらしさ」 とは何かという問いについて峯村は 「表皮」 と答えた。
これでなるほどと納得できるほどの素養がないので、「表皮」 とは何であるのか、一応確認しておきたい。
フィリッポ・ブルネレスキからの薫陶を受けて、遠近法を習得したとされるマサッチオやその後継者ピエロ・デラ・フランチェスカ、そして初期ルネサンスの画家たちは視覚表現の空間の合理化や視覚の透明化に取り組んだ。
しかし、例えば、マサッチオはパースペクティヴを遮断する部分を持ち込んだり、ピエロは遠近法を完璧なものにせずに不徹底な部分を残す、あるいは両者に共通する特徴として、描かれた人物たちの無表情さやうつろな視線など、視覚表現の科学化に逆らう不透明感や不合理な要素を科学化を推し進める作品の中に共存させた。
そこに立ち現れる絵画独特の半透明性という両義性の魔術――峯村はそれを 「表皮」 と呼んだのだ。

《街路》 がバルテュスにはじめて魔術的な画面をもたらすことができたのは、だから、偶然ではなかった。彼はそこでマサッチョ (と初期ルネッサンス絵画) 譲りの中断される奥行きと横すべりする眼差しとを梃として、表皮の視覚的力学を手に入れたのである。正面中央を材木をかついで横切る白服の人物の透視妨害効果。画面左端のいかがわしい出来事から私たちの注意を緑帽の女の子へ、さらに真っ赤なボールへと導いてしまう、視線の横すべり効果。これらもまた、主題やモチーフの力を、絵全体の表皮の力がもつ磁場に位置づけようとする工夫のあらわれらほかならない。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

バルテュスが 《街路》 を描くに当たって住んでいたオデオン近くのフェルステンペルグ広場からジャコブ街へ抜ける道を舞台にしたのは何故なのか、という問いにどういう回答が与えられるのか、その過程を軽くまとめるつもりでいたのにご覧の有り様で、長々としたまとめになってしまった。
後半、いくつか疑問点が生じそこで一旦流れが別の方向に流れてしまったため (この別の方向に流れてしまった部分については、その内容をエントリの最後に移動した)、軌道修正したところ、回答という終着点を通り過ぎてしまい、「バルテュスらしさ」 とは何かという別の問いへの回答の一つへと辿り着いていた (辿り着いたといっても自分で考えを巡らしたのではなく、他人の思考の軌跡をただなぞっただけなのだが)。
峯村敏明は続けてバルテュス作品における 「眼差し」 と 「光」 について考察していくことになるのだが、ここではその考察を追うことはせずに、1937年に制作された 《山》 について話を移すことにしよう。


ガエタン・ピコンは 『素晴しき時の震え』 の中で、絵画と時間とイメージと画家の関係、あるいは絵画と時間とイメージとわれわれの関係を様々な画家、様々な作品、様々な時代を行きつ戻りつ語っており、その中で老年期に達した西欧絵画が生み出した作品について次の様に語っている。

極度の老年期に達した西欧絵画が最近作り出したさまざまな作品は、西欧の古典画家たちが年をとってから描いた作品と相通ずるものがある。すなわち、ティチアーノの晩年の諸作品や、レンブラントのあの最後の作品 (ブランスヴック美術館の 『ティトゥス一家』) に見られる、色彩の高まりや氾濫がそれであって、その場合、色彩は、それを閉じ込めている事物を規定することを止めて、まるで水のようにいたるところに拡がり、キャンバスのうえにぶちまけられたパレットそのものと化す。イメージを無視したこのような色彩の高まりこそ、時間の動揺沸騰にほかならないのである。すなわち、現存の感情が絶頂に達すると、この感情は、対象を再現するなどということを排除しようとする。こうした経験は、自分に残された最後の数瞬にしがみつく老人の味わう経験でありうるわけだが、それはまた、おのれがどこにおもむくかを知らぬ生の経験でもありうるのだ。(・・・・・・)
 現在に腰をすえた芸術においては、時間がイメージを消し去る。記憶を扱う芸術においては、一般に、イメージが時間を消し去るのだ。あの老年期の絵においては、イメージは、まるであけっぱなしの扉の前に置いたろうそくの焔のようにゆらめき動くのだが、こういう絵と、われわれがその背後にそれまで過ごされてきた時間の厚みをあますところなく感じるような絵とを区別する必要がある。これらの記憶を描いた絵は、隠遁者の住まう洞穴や、船が難破したあとの砂漠のようなもので、われわれは、結局のところ、そこに、旅の持続を感じるというよりも、旅路の果ての、様々な漂流物や獲物を眺めるのである。イメージは、時間のあとまで生き残るのだ。ブルトンは、その生涯を通じて、ただ 「時間の黄金」 だけを求めてきたと表明している。また、プルーストは、時間の中で、「純粋状態のいくらかの時間」 に出会ったとわれわれに語っているのだ。事実、ここで問題となっているのは、「時間の秩序から解放された寸刻」 なのである。(・・・・・・) イメージは、時間にそってその道を辿るのだが、今やそれは、しずかな水面にしっかりと落ちつくのであって、そこではいかなる返し波もイメージを乱しはしない。アングルのあの肖像画においては、いかなる微風もあの肩掛をふくらませることはないであろうし、いかなる動きも、あの服の皺を乱しはしないだろう。タンギーの描いたあの海岸も、エルンストの描いたあの森も、永久に不変である。(・・・・・・) かくも長いあいだ旅を続けてきたこれらの夢想がたどりつくのは、或るイメージの縁どられた不動性にほかならぬ。
- ガエタン・ピコン 『素晴しき時の震え』 より

『素晴しき時の震え』 では様々な画家の様々な作品が時間との関係で語られていて、そうした中で幾人かの小説家と詩人への言及が度々おこなわれている。
上の引用にも名前のあるプルーストはその中でも言及される頻度が最も高い小説家で、『失われた時を求めて』 を読んだことのある者なら容易に感じ取ることができることなのだが (という言い方は何かいやらしさがあるがお許しを)、『素晴しき時の震え』 の中では 『失われた時を求めて』 が通底音として常に響き続けているからなのだ。
『失われた時を求めて』 の第一篇 「スワン家のほうへ」 において、語り手である 「私」 はマドレーヌを溶かした紅茶を口にした瞬間、あらゆることから孤立した感覚の快楽にうち震え、その未知の体験に驚きつつも何が起こったのかひとしきり考え込んだ後に、それが無意識のうちに過去の出来事を想起したことによるものだと思い至る。
そこから過去と現在を行きつ戻りつしながら物語は進んでいくことになるのだが、最終巻の 「見出された時」 において再びその瞬間について考えを巡らせることになる。

これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらしたある霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚を――フォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々を――鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだんの想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないもの――きらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。
- マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』 より

ピコンが 「プルーストは、時間の中で、『純粋状態のいくらかの時間』 に出会ったとわれわれに語っている」 という時、『失われた時を求めて』 の中で語られているのはこういったことなのだ。
あるいは、「ここで問題となっているのは、『時間の秩序から解放された寸刻』 なのである」 とピコンがいう時、プルーストが語っているのは、

私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらされえない現在を考察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまちその活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、過去と現在のなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂いが、現実と過去との同時のなかで、すなわち現時ではなくて現実的であり、抽象的ではなくて観念的である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまち、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我が――ときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我が――もたらされた天上の糧を受けて、目覚め、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。
- マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』 より

ということであり、その残響も 『素晴しき時の震え』 のいたるところから読み取ることが可能だろう。
こうした五感 (視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚) と記憶と時間を巡るプルースト的思考は先の引用部のみに表れるのではなく、『素晴しき時の震え』 全体を支配しており、そこかしこからその影響を見て取ることができ、要するにそれが通底音の謂いである。
『素晴しき時の震え』 はプルースト的な、あまりにもプルースト的な思考でもって美術について語った本といえるだろう (サルトルと同世代のピコンの感性は、今の時代、さすがに古いと言わざるを得ないが、それでもこの『素晴しき時の震え』 は美しいと丹生谷貴志が昔どこかに書いていた。プルースト的思考から遠く離れているかどうかは分からないが、蓮實重彦は 『物語批判序説』 の 「Ⅰ プルースト または遊戯の規則」 で 『失われた時を求めて』 の第七篇 「見出された時」 を読み解いていき、しかし、そこでは 「『私』 の生涯にさまざまな時期にばらまかれている特権的な瞬間の持つ奇妙な表情についてはいっさい触れられていないし、見出しつつある時の中でそうした瞬間の印象が饗応し合い、空間を超えた絵模様をかたちづくるさまにもいっさい言及され」 ることがなく、「ふだんはけっしてつかむことができないもの――きらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間――を、獲得し、孤立させ、不動化すること」 という一節も引用されているが、ピコンとは全く違った言説の中に置かれることになる。まあ、あれも終わった、これも終わったという言説が溢れていた時代の言説空間――と、いかにも書かれた時代の言説空間を直に知っているかのように書いてしまったが、実際に知っている訳ではなく、印象でしかない――にその時代からはるか以前に書かれた 「見出された時」 で亀裂を入れようと試みているのだから置き方や置く場所が違ってくるのは当たり前なのだが)。

蓮實重彦が簡潔にまとめてみせた 「『私』 の生涯にさまざまな時期にばらまかれている特権的な瞬間の持つ奇妙な表情 (・・・・・・)、見出しつつある時の中でそうした瞬間の印象が饗応し合い、空間を超えた絵模様をかたちづくるさま」 という 『失われた時を求めて』 のエッセンスをピコンは、絵画と時間の問題と人とのかかわりとして 『素晴しき時の震え』 で繊細に語り直してゆき、老年期に達した西欧絵画が生み出した近年の作品に西欧の古典画家たちが老いの中で描いた作品と同質のものを見て取るのだが、そのことに触れた先の引用の続きにおいてバルテュスの 《山》 は次のように語られている。

この絵には、今しがた陽が昇ったばかりでさまざまな人物が巨大な石切場のうえにくっきりと浮かびだしひとりの女が半ば以上身体を浮き出させて伸びをしている部分と、――もう一人の別の女が眠っているまだ夜の部分とがあって、一本のななめの線がこの二つの部分を分割している。だが、この物語は――これが物語のいっさいで、これはけっして終わることがない、なぜなら分割された精神はけっして根源の光に再び結びつくことがないからだ――、変わることのない線の平静さと、もはや生によって触れられることのないイメージのなめらかな表面とにいたりつくのである。
 消し去り得ぬイメージ、あるいはまた、消え去るや否やふたたび形成され再び立ち戻ってくるイメージだ。現存するものの純粋な時間性と、溜まり続けるように思われるものの非時間性との間には、永劫回帰という、時間性の非時間的様態がある。ここにこそ、つまり、不滅のもののいつわりと純粋な現在の空虚とのあいだにこそ、芸術の目指す至高の方向があるのではないだろうか――生からではないにしても少なくともそのせまい個人的な感情から解放された何らかのイメージによって、実在を、実存の物語をさし示す、芸術の神話的方向があるのではないだろうか?
- ガエタン・ピコン 『素晴しき時の震え』 より

ピコンは朝と夜の物語に分割されているというが、バルテュスは一本の斜めの線によって何と何を分割したのだろうか。
例えば、坂崎乙郎は 『画家のまなざし』 に収録されている 「見えぬものと見えるもの」 でこの引用とほぼ同じところを引用し、《山》 の、斜めの線によって分割された二つの部分について次のように述べている。

 印象派のモネが、クルーペの、ついでマネのレアリスムを一歩おしすすめて、うつろいゆく光をルーアンのカテドラルやテムズ河の風景に余映のようにつなぎ止めようとしたとき、光は冷酷に画面を食い尽くし、海綿状の軽石状の、粉っぽい作品が生まれる。
 バルテュスはいわゆる写実の限界を認めていた。いや、限界のない方法論など存在しない。バルテュスの 〈山〉 に当然、限界を発見する人もあるだろう。人物が生硬であるとか、バックの山が舞台の書割みたいであるとか、ただし、これらの非難は、バルテュスがこの絵で唯一目標にした、光線の当たっている部分 (外的時間の世界)、陰の部分 (内的時間の世界) の分裂の前ではもろくも崩れ去るのである。なぜなら、バルテュスは、陰の部分ではいわゆる写実性を、明るい部分では虚構性を意識して用いているのだから。
- 坂崎乙郎 「見えぬものと見えるもの」 (『画家のまなざし』 より)

この 「見えぬものと見えるもの」 というエッセイは 「絵画におけるレアリスムとは何か」 というサブタイトルを持っており、「今日でもなお、対象の精緻な描写と誤解している人が多い」 レアリスムについて、クルーペやワイエスやバルテュスや鴨居玲などの作品に触れながら、その本質について語っているといったものなので、ピコンの 『素晴しき時の震え』 はそういった内容からはいささかかけ離れているのだが、坂崎乙郎はそれを強引に取り込んでレアリスム絵画における時間の問題として捉えなおしている。
陰=内的時間の世界=写実性と陽=外的時間の世界=虚構性とに分割されているという見方が正しいのかどうかは分からないが (そもそも正解があるというものではないので)、これはこれで面白い見方なのではないだろうか。



いつものごとく、バイオグラフィをリニアに辿りつつ作品への言及もしていくというまとめ方をしていたのだけど (やたらと引用が多いのも相変わらず)、普段はあまり考えもなく書き進めてしまうのに、このエントリは立ち止まって考え込むことが多くて疲れてしまった。
ということで、続きはいずれ追加することにして (と書いたものの、本当に追加するの?と自分で自分を疑っている)、尻切れ蜻蛉な内容のここまでをとりあえず公開することに。


ポストした十点のタイトルは以下の通り。


《夢みるテレーズ "Thérèse Rêvant (Thérèse Dreaming)"》 (1938)
《ギターのレッスン (ギターの練習) "La Lecon de Guitare"》 (1934)
《美しい日々 "Les Beaux Jours (The Golden Days)"》 (1944)
《客間 Ⅱ (居間 Ⅱ) "Le salon Ⅱ, 1942 (Drawing Room Ⅱ)"》 (1942)
《部屋 "La Chambre (The Room)"》 (1952)
《猫と鏡 Ⅲ "Balthus - Le Chat au Miroir Ⅲ"》 (1989-94)
《山 (夏) "La Montagne (The Mountain)"》 (1937)
《地中海の猫 "Le Chat de la Méditerranée"》 (1949)
《街路 (通り) "La rue (The Street)"》 (1933)
《コメルス・サン・タンドレ小路 "Le Passage du Commerce Saint-André"》 (1952)


Balthus
Wikipedia - Balthus
Balthus - WikiPaintings.org
BALTHUS pittore opere
Balthus : Reflets de Cristal

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