Friday, May 5, 2006

Helmut Newton











Helmut Newton (ヘルムート・ニュートン)
1920年10月31日にドイツの首都ベルリン (Berlin) において、ヘルムート・ノイシュテッター (Helmut Neustädter) として生まれた。
2004年1月23日、ハリウッドにおいて交通事故でなくなった。
ドイツ出身のフォトグラファ。
頽廃的な都市のエロスを官能的に写真で表現することができる写真家として人気が高かった。

父親はボタン工場を営むユダヤ人で、母親はアメリカ出身のユダヤ人であった。
ハインリッヒ・フォン・トライチケ実科ギムナジウム (Heinrich-von-Treitschke-Realgymnasium)、アメリカンスクールで教育を受けた。

12歳でカメラを手に入れ、趣味が高じ、1936年、16歳でベルリンを拠点に写真スタジオを営み、広告写真などを撮影していたユダヤ人の写真家エルゼ・ノイレンダー・ジーモン (Else Neulander Simon) の下で働き始めるが、ジーモンはナチスドイツの反ユダヤ主義を警戒して移住を考えていた頃だったという。
ジーモンの対戦前の写真の多くはナチスに没収されたり、空襲で焼失したりであまり残っていないが、現存する写真を見ると洗練された写真を撮る写真家だったことが分かり、そういった面でノイシュテッター青年も少なからず影響を受けたのではないかと思われる。

ナチスが定めたニュルンベルク法が施行されると、ノイシュテッター青年の父が経営するボタン工場も営業が禁止され、一家はドイツから脱出をせざるを得ない状況となった。
しかし、1938年11月9日、ノイシュテッター青年は拘束され、強制収容所に短期間収容されることになり、その間に両親は南アメリカへと脱出。
短い拘留の後、パスポートの交付を受けることがでたノイシュテッター青年は、1938年12月5日にドイツを出発し、イタリアのトリエステを経由してシンガポールへと辿り着く。
このシンガポールでは、しばらくストレーツタイムズ (Straits Times) 社の写真家を務めたり、肖像写真家として活動していたのだが、イギリス当局に拘留され、クイーン・メリー号でオーストラリア送りにされてしまう。
1940年9月27日、オーストラリア南東部のヴィクトリアに到着すると、1942年まで収容キャンプでの生活を余儀なくされた。
抑留から解放されると、 北ヴィクトリアで果物収穫業の仕事を短期的に行い、1942年4月、オーストラリア軍に入隊すると、輸送隊でドライバーとして働いた。
1945年、大戦終了を機にオーストラリアの市民権を獲得すると、 翌1946年には名前をノイシュテッターからニュートンに変更し、ヘルムート・ニュートンとなる。

1946年、メルボルンのファッション通りとして栄えていたフリンダーズ・レーンにスタジオを構え、ファッションと劇場の写真を主とした写真家として活動を始めた。
そんな頃にオーストラリアの女優ジューン・ブラウン (June Browne) と出会い、1948年、ふたりは結婚。
ジューン・ブラウンはニュートンとの生活の中で写真を撮ることを覚え、後に写真家アリス・スプリング (Alice Springs) として成功を収めることになる。

当時オーストラリアには戦火を逃れ辿り着いたヨーロッパ人が多くおり、交流が盛んだったというが、そんな中にニュートンと同じく、ナチから逃れ、ベルリンからこの地にやってきたヴォルフガング・ジーバース (Wolfgang Sievers) がいた。
ジーバースは戦後メルボルンのサウスヤラにスタジオを構え活動を始めており、生涯の友となった。
ふたりは1953年5月に共同展示会 "New Visions in Photography" を開き、結果的に、戦前のドイツにおいて短命に終わった芸術運動ノイエザッハリヒカイト (Neue Sachlichkeit) の一端を、戦後になって、ドイツからオーストラリアへともたらす展示会となったという。
また、おなじくドイツから逃れてきたユダヤ人の写真家ヘンリー・タルボット (Henry Talbot) とはスタジオの共同経営をする関係になり、スタジオ名は "Helmut Newton and Henry Talbot" に変更され、ニュートンが活動の場をロンドンに移した後もしばらくこの協力関係は続いた。

成長著しいヘルムート・ニュートンは1956年1月発売の VOGUE 誌でオーストラリア特集の写真家を務めるまでになる。
Vogue BRITISH 誌と12カ月契約を交わしたち後、1957年2月に渡英。
その後一度パリに渡ってフランスとドイツの雑誌のために働き、1959年3月、オーストラリアの VOGUE 誌との契約のためメルボルンに戻った。

1961年、ニュートンは再びパリに渡り、以後、同地を拠点としてファッションフォトグラファの仕事を続けていく。
ニュートン独特のサド=マゾヒスムやフェティシズムが流れ出すエロチックなスタイルを作り上げ、そのスタイルは年々都会的洗練と頽廃が色濃くなっていくと、1980年に発表した "Big Nudes" シリーズでその頂点を迎える。

その後も精力的に活動を続け、晩年は生活の拠点はモンテカルロとロサンゼルスに置いていた。
2004年1月23日、ハリウッドでクルマを運転中、オーバースピードでハンドルを捌ききれず壁に激突。
救急医療センターに運ばれたが、その甲斐無く亡くなってしまった。
八三歳だったという。


十九世紀末のヴィクトリア朝時代にアンダーグラウンドな世界でコルセット、鎖、革具といった身体拘束具を使用したエロティックなプレイが繰り広げられたが、それが海を渡り、一九二〇年代以降のハリウッドのコスチューム・プレイやエロティックなコスチューム姿が描かれていたSci-Fi コミックスやペーパーバックのカヴァといったアメリカのポピュラーカルチャーと何時しか混ざり合い、一九五〇年代頃にはサド=マゾヒスム・ファッション・アートといったものが生まれていた。
それを象徴するのが Bizarre 誌を主宰し、自らも 『スウィート・グウェンドリン (Sweet Gwendoline)』 等のボンデージコミックを描き、後の世代に大きな影響を与えることになったジョン・ウィリー (John Willie) である。
そういったアンダーグラウンドな世界をを通し、サド=マゾヒスム・ファッション・アートは徐々にアメリカの中へと浸透していき、気が付いた頃には一般のカルチャーへと拡散していたのである。
ヘルムート・ニュートンはその正当な後継者なのだと伊藤俊治は著書『裸体の森へ』の中でコンパクトにまとめているのだが、ここではそれを更にコンパクトにまとめてみた。
そのまとめの前に伊藤俊治はニュートンの次の発言を引用している。
やがて私はヌード・マガジンの類には飽き飽きしてしまった。完全に規格化されてしまったからだ。今ではああいう雑誌は通信販売のカタログよりもひどい。表情は相変わらずだし、ポーズも五種類くらいしかない。こういった雑誌によって私にとって大切なものであるミスティックなゆらめきや密やかさの感じが失われてしまった。これからやれることが医療カメラを使って膣の中に入りこむことだけというのは悲しいことだと思う。私のヌード写真が時には靴さえ脱がせてしまうほどの本当の裸になったのはごく最近のことだ。靴を脱がせるのはつらい。裸足の女と靴をはいた女とでは違う立ち方をするのだ。ハイヒールをはくと彼女の脚と背中にある種の力強さ、緊張感が生まれる。そしてその筋肉が弛緩していないのではっきりと目立つようになる。今の私が欲しいと思っているのはヌードマガジンをまったく思い起こさせないようなモデルだ。個性のある、本当のものを持った女性が欲しい。肉体は完璧でなくてもいい。完璧さは興味をそぐ。私にとっては完璧でないものの方がずっと魅力的であり、私が素晴らしいと思う女性を他の人は太りすぎだとか、背が高すぎるというかもしれない。しかし私は、美しい尻や美しい脚のフォルムが好きなのだ。 - 伊藤俊治 『裸体の森へ』 より
まさに至言、などと言うつもりはないが、最後まで読むといつも、いやそうだよ、素晴らしい、ニュートン最高!とニヤニヤしてしまうのだ、三〇年かそれ以上前の発言だというのに。

ヘルムート・ニュートンの写真を最初に見たのは何時頃のことだったろうとたまに考えることがあるのだが、どうにも思い出すことができない。
最初に見た写真がポストした一枚目の高層ビルを背景に撮影されたバニーガール姿の女性を撮影した写真であることと、この写真はヤバイ、いけないものが写っている、危険危険というそのときの思いは、いやにはっきりと憶えているのだけど。
この写真は一九七五年一一月に、今ではティファニーのデザイナーとして有名なエルサ・ペレッティ (Elsa Peretti) のバニーガール姿をペレッティのニューヨークのアパートメントのテラスで撮影したもので、ヘルムート・ニュートンの写真の中ではもっとも有名なものだろう。
まだ子供だった私はその写真から普通のヌード写真よりももっと危険な何かがあると感じ取り、危険だと思いつつ、どうしようもなく惹かれる自分に非常に疚しさを憶えたというのを確かに記憶しているのだけど、あの頃というのがいったい何時頃のことなのかは思い出せないので、これはもしかすると、ヘルムート・ニュートンのことを考える度に捏造され蓄積された偽りの記憶ではないかと疑ってもみたもしたが、いや、やはり、あの頃、確かにそう思ったのだとなってしまう。
とにかく、十代の初め頃から中頃に見たのは間違いなく、そのとき感じたあのヤバイという感覚、それだけはずっと憶えていて、この写真を見る度にその記憶のようなものが反芻されるのだ。
自分の性的嗜好を含む諸々の嗜好を自覚させた写真とでもいえばいいのだろうか、そういった意味でこの写真は自分の中で特別な位置にある。

ポストしたのは、

"Portrait of Elsa Peretti as a bunny on the terrace of her New York apartment (Elsa Peretti, New York)" (1975)
"In my hotel room, Place de la République, Paris" (1976)
"Arielle, Monte Carlo 1982" (1982)
"Carla Bruni" (1993)
"Monica Bellucci" (2001)
"Francoise Sagan, 'Adam' magazine, Conde Nast, Paris 1963" (1963)
"June Newton, Paris 1972" (1972)
"Sleepless Nights - Saddle I" (1975-1978)
"Two Pairs of Legs in Black Stockings, Paris" (1979)
"Tied-up torso, Ramatuelle" (1980)

の10点。
個々の作品のタイトルを一応調べてはみたのだが、すべてを正確に把握というわけにはいかず、タイトルの中に撮影された年や場所が含まれていたりいなかったりだとか、掲載された雑誌の名前が含まれていたりするものがあったり、被写体の名前のみという場合があったりと、統一感に欠けたものとなってしまった。
横たわった女性とカラー写真はまた別の機会にまとめたいと思い選択から削除している。
他にも、後姿や脚も別のエントリが立てれたらとか、男は邪魔だとか欲張りなことを考えてチョイスしていた結果、微妙に地味なチョイスとなってしまった。
それにしても、イザベラ・ロッセリーニ (Isabella Rossellini) を見つめながら首筋に手を当てるデヴィッド・リンチ (David Lynch) を撮影したあの写真は、何時見ても、あそこでイザベラ・ロッセリーニを見つめているのが自分じゃないのだ?という嫉妬に駆られ、頭を掻き毟りたくなる (嫉妬って。何様だよ、って話なんですけどね)。


Wikipedia
Art Pages - Helmut Newton
Фотограф Helmut Newton (61 фото - 10.78Mb) » Фото, рисунки
ana_lee: Джун о Хельмуте/ Helmut by June (2007)


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