Tamara de Łempicka (Tamara de Lempicka、タマラ・ド・ウェンピツカ、タマラ・ド・レンピッカ)
出生名は、Maria Górska (マリア・グルスカ) であったらしいが、詳細は不明。
1898年にポーランド立憲王国 (Królestwo Polskie) 時代のワルシャワ (Warszawa) で生まれた。
1980年3月18日、メキシコのクエルナバカ (Cuernavca) で亡くなった。
アール・デコを代表する画家の1人。
父はポーランド人弁護士で、母はポーランド人の上流階級出身というから、かなり裕福な家庭に生まれたといえるが、両親は後に離婚し、タマラが思春期を迎えた頃に母親が再婚してしまったために、タマラは傷付くことになる。
タマラは自尊心の強い、我儘で気紛れな子供だったようで、いつか舞台に立つことを夢見て母親にせがんでピアノを買ってもらい、しばらくの間自室にこもって熱心に練習に取り組んでいたが、ある時、ふと、これではいつまでたっても他人の作った曲をただ反復していくだけになるのではないかという思いに囚われると、それっきりピアノの練習をしなくなってしまったという。
また、12歳の時、ワルシャワ郊外の別荘で有名なパステル画家に肖像画を描いてもらったのだが、タマラはその出来栄えが気に入らず、自分が描いた方が遥かにましになるはずと思ったそうなのだが、タマラは当時まだ筆を持ったことさえなかったというのだから相当なもので、
私は絵具を手に入れました。妹を無理やり座らせました。描きまくり、ようやく満足な結果が得られました。不完全なものでしたが、私の描いた妹の肖像画のほうが、有名な画家の手になる私の肖像画よりも当人に似ていたのです。
- 回想: キゼット・ド・レンピツカ・フォックスホール、記: チャールズ・フィリップス 『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』
と、当時を振り返っている (リブロポートから出ているこの本では、Lempicka はレンピツカという表記になっている)。
タマラはスイスのローザンヌにある全寮制学校で教育を受けた。
在学中の1911年の冬、祖母マダム・クレマンティーヌのイタリア経由のモンテカルロ行きの旅に付き添い、まずイタリアのフィレンツェ、ローマ、ヴェネチアで多くの美術館を訪れ、祖母のルネサンスの巨匠たちの作品についての表現法や構図などの説明を受けることになったのだが、初めて直に接した古典絵画に感動し、後々まで忘れることはなく、幾度となくイタリアの美術館に足を向けることになる。
イタリアで絵画の世界を堪能した後、ふたりはコート・ダジュール沿いのモンテカルロに辿り着き、ギャンブル好きの祖母がカジノのルーレットで負け続けている間、タマラは現地で知り合ったフランス人の画家だという青年に絵画の手ほどきを受けて過ごした。
1912年、母親が再婚することに決めたことでタマラは怒り、傷付く。
ローザンヌの学校を卒業した後、家に戻りたくないと思っていたタマラに救いの手を差し伸べたのは、叔母のステファーニヤ・イェンセンだった。
叔母は夫と子供たちとペトログラード (現在のサンクトペテルブルク) で裕福に暮らしており、行き場を失いかけていたタマラを受け入れ、自由にさせてくれたのだ。
叔母夫婦は贅沢に暮らしており、室内の装飾はパリの商社メゾン・ジャンサンの担当したものだった。タマラは終生忘れることがなかった――ジャンサンのスタンプが前面に押された、フランスからの非常に大きな包み・・・・・・山のような薄葉紙を破き、薄手のブラウス、小さなボタンやリボンや蝶形リボンで一杯の、手で刺繍されたドレスなど、美しい衣類を引き出すときの格別のよろこび・・・・・・。
ステファ叔母さんは姪のタマラに浅底の秘密の引き出しを開けさせて、その夜叔母自身が身に着ける宝石を選ばせることもあった。ダイヤ、ルビー、エメラルドなど、それぞれに専用の引き出しがあった。突然、タマラは自分がどのように生きたいかがはっきりとわかった。
- 『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』 より
1913年、15歳になったタマラは叔母の家族と訪れたオペラ劇場である青年に一目惚れをする。
タデウシュ・レンピッカという美男子で、レンピッカ家という大地主の家系に連なる弁護士でありながら、遊び好きの好色漢と知られる人物で、劇場にも美しい女性を二人伴ってやってきていた。
当時、ペトログラードの社交界でタマラの是が非でも自分のものにしたいという欲望を喚起させた人物はこのタデウシュ・レンピッカが初めてで、幕間にタデウシュ・レンピッカを見かけたタマラは相手の印象に残るよう、大げさにお辞儀をして見せた。
その後叔母夫婦が仮面舞踏会を開いた時にタデウシュも招待され、タマラはそこで趣向を凝らした登場をした後に改めて自己紹介をし、タデウシュに以前の出会いを思い出させた。
このタマラの恋は募る一方なのだが一家はあまりよい顔をせず、特に叔父は年齢差や弁護士といってはいるが無職同然で、しかも女遊びが盛んなタデウシュ・レンピッカへの恋心に難色を示す。
大戦の戦局次第ではこの恋の行方は違う結末を迎えていたかもしれないが、1915年8月にドイツがポーランドに侵攻し、タマラは実家に帰る機会を逸してしまったことで、次のようなやり取りが叔父を介して行われることになったのである。
叔父がため息混じりで、「それでタマラ、自分の人生をどうする気だね?」と問いかけると、結婚するなら、どうしてもあのタデウシュ・レンピッカとでなければいやだ、とタマラは答えた。・・・・・・叔父はレンピッカと交際があったので、訪ねて行った。「いいかね」と叔父は話を切り出した。「包み隠さず話すとしよう。きみは世慣れているが、財産はあまりない。こちらには結婚させたい姪がいる。ポーランド人だ。姪との結婚を承諾してくれれば、持参金を付けよう。ともかく、きみもかねてから知っている娘だ。」
- 『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』 より
かくして1916年、タマラ・グルスカは念願叶ってタデウシュ・レンピッカとペトログラードのマルタ騎士団付属礼拝堂で結婚に至った。
タマラの恋について、1991年に翻訳された 『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』 を基に纏めて来たが、Wikipedia の記述では些か細部や経緯などが異なっているので、併せて引用しておこう。
1916年、叔父のコネを利用して、その男性と結婚する。男性はタデウシュ・ウェンピツキというポーランド人弁護士で、スマートな美男子の女たらしとして有名で、結婚したのも持参金が目当てだったとも言われることがあるが、タデウシュが当時金銭的に困窮していた形跡はなく、一方で当時のポーランド人の社交界の女性の間では女性経験の豊富な美男子を獲らえて結婚することが優れた女の証、亭主は価値ある女である自分を美しい芸術作品として引き立たせるためのただの「額縁」、浮気は女のウサ晴らし、などという女性主導の自由奔放な文化があったことから、激しい性格でプライドが高く競争心の強いタマラの方が、タデウシュに群がる他の女たちを押しのけて金銭で釣るなども含めてあの手この手で彼を獲得することに躍起になったというのが真相のようである。
『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』 では二人の結婚からパリに移り住む間の出来事についてまとめた章に 「フィンランド駅へ」 というタイトルを付けている。
このタイトルはエドマンド・ウィルソンの 『フィンランド駅へ』 という著書から借用したもので、ウィルソンはその著書でヴィーゴを発見して興奮するジュール・ミシュレに始まり、弾圧を逃れフィンランドにいたレーニンが革命の知らせを受けてペトログラードのフィンランド駅に辿り着き、集まった群衆に 「親愛なる同士諸君、兵士、水兵、労働者たちよ!」 と演説するまでの社会主義思想の歴史と群像を余すことなく書き記しているのだが、プロレタリアートとは対極の立場にいた若きレンピッカ夫妻は、この革命で幸せの絶頂から突き落とされることになる。
ある日、反革命的・反動的政治グループの活動に関与していたという理由でタデウシュが逮捕され、いずこかに拘留されてしまう。
タマラは手を尽くして夫を探すも見つけることが出来ない。
途方に暮れていたところ、スウェーデンの領事が私がお役に立てるかもしれないと声をかけてきた。
この話があってしばらくした頃、領事は使いをよこしてあなたの夫が見つかりましたと知らせてきたが、反動分子として拘留された者を逃がすのは難しい、しかし、経費如何によっては何とかなるかもしれないと足元を見る要求、要するにタマラ自身を対価として差し出せと暗に要求してきたのだ。
タマラそれを清算した。
あなたにも危害が及ぶ恐れがあるから、私とともにコペンハーゲンまで非難すべきだ、あなたがここに残っていても出来る事は何もありはしないのだからと件の領事が半ば強制ともいえる助言をしてきたが、タマラは返事を渋っていたが結局同意し、フィンランド駅経由でコペンハーゲンに逃れ、夫の到着を待つことになった。
6週間に亘ってボルシェヴィキに尋問された夫のタデウシュはなんとかコペンハーゲンのタマラのもとに辿り着くことが出来たのだが、以前とは別人のように陰鬱な人物となってしまっており、タマラは夫のその変わり様を嫌悪した。
ちょうどその頃、結婚披露宴で見かけ、心惹かれるところのあったシャムの外交官とコペンハーゲンで再会し、タマラはこの人物と隠すことなくおおびらに交際するようになり、ロンドンで贅沢な時間を過ごしたりしたのである。
最初の結婚はこの時点ですでに破綻していたのだが、二人は今しばらく生活を共にすることになる。
以上が1918年頃までの出来事で、この時点ではタマラはまた画家ではない。
レンピッカについては、二度か三度に分割してエントリを立てようと計画しているので、今回はここまで。
ということで、続きはいずれそのうちに。
ポストしたのは、
《緑色のブガッティに乗るタマラ (Auto-Portrait (Tamara in the Green Bugatti))》 (1925)
《手袋をした若い淑女 (Young Lady with Gloves)》 (1930)
《若い娘たち (The Girls (Two Girls)》 (1928)
"The Green Turban" (1929)
"Woman with a Green Glove" (1928)
《イレーヌ姉妹 (Irene and Her Sister)》 (1925)
"Suzanna in the Bath (Suzanne au bain)" (c. 1938)
"Nude (Nu adossé II)" (c. 1926)
"Perspective (The Two Friends)" (1923)
"Rhythm" (1924)
の10点。
タマラ・ド・レンピッカの作品の中では 《緑色のブガッティに乗るタマラ (Auto-Portrait (Tamara in the Green Bugatti))》 が最も有名な作品なのではないかと思うが、他にも 《手袋をした若い淑女 (Young Lady with Gloves)》 という作品もグリーンのドレスがとても印象的なこともあって、レンピッカといえば 「緑」 を反射的に思い浮かべてしまう、というフィクションに基づいて、緑を基調とした作品をひとまとめにポストしてみた。
緑を基調としたとまではいかない作品もあるけど、そこはご愛嬌ということで。
Wikipedia - タマラ・ド・レンピッカ
http://cgfa.sunsite.dk/lempicka/lempicka_bio.htm