Thursday, June 29, 2006

Tamara de Łempicka (Tamara de Lempicka) 01











Tamara de Łempicka (Tamara de Lempicka、タマラ・ド・ウェンピツカ、タマラ・ド・レンピッカ)
出生名は、Maria Górska (マリア・グルスカ) であったらしいが、詳細は不明。
1898年にポーランド立憲王国 (Królestwo Polskie) 時代のワルシャワ (Warszawa) で生まれた。
1980年3月18日、メキシコのクエルナバカ (Cuernavca) で亡くなった。
アール・デコを代表する画家の1人。

父はポーランド人弁護士で、母はポーランド人の上流階級出身というから、かなり裕福な家庭に生まれたといえるが、両親は後に離婚し、タマラが思春期を迎えた頃に母親が再婚してしまったために、タマラは傷付くことになる。
タマラは自尊心の強い、我儘で気紛れな子供だったようで、いつか舞台に立つことを夢見て母親にせがんでピアノを買ってもらい、しばらくの間自室にこもって熱心に練習に取り組んでいたが、ある時、ふと、これではいつまでたっても他人の作った曲をただ反復していくだけになるのではないかという思いに囚われると、それっきりピアノの練習をしなくなってしまったという。
また、12歳の時、ワルシャワ郊外の別荘で有名なパステル画家に肖像画を描いてもらったのだが、タマラはその出来栄えが気に入らず、自分が描いた方が遥かにましになるはずと思ったそうなのだが、タマラは当時まだ筆を持ったことさえなかったというのだから相当なもので、
私は絵具を手に入れました。妹を無理やり座らせました。描きまくり、ようやく満足な結果が得られました。不完全なものでしたが、私の描いた妹の肖像画のほうが、有名な画家の手になる私の肖像画よりも当人に似ていたのです。
- 回想: キゼット・ド・レンピツカ・フォックスホール、記: チャールズ・フィリップス 『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』

と、当時を振り返っている (リブロポートから出ているこの本では、Lempicka はレンピツカという表記になっている)。

タマラはスイスのローザンヌにある全寮制学校で教育を受けた。
在学中の1911年の冬、祖母マダム・クレマンティーヌのイタリア経由のモンテカルロ行きの旅に付き添い、まずイタリアのフィレンツェ、ローマ、ヴェネチアで多くの美術館を訪れ、祖母のルネサンスの巨匠たちの作品についての表現法や構図などの説明を受けることになったのだが、初めて直に接した古典絵画に感動し、後々まで忘れることはなく、幾度となくイタリアの美術館に足を向けることになる。
イタリアで絵画の世界を堪能した後、ふたりはコート・ダジュール沿いのモンテカルロに辿り着き、ギャンブル好きの祖母がカジノのルーレットで負け続けている間、タマラは現地で知り合ったフランス人の画家だという青年に絵画の手ほどきを受けて過ごした。

1912年、母親が再婚することに決めたことでタマラは怒り、傷付く。
ローザンヌの学校を卒業した後、家に戻りたくないと思っていたタマラに救いの手を差し伸べたのは、叔母のステファーニヤ・イェンセンだった。
叔母は夫と子供たちとペトログラード (現在のサンクトペテルブルク) で裕福に暮らしており、行き場を失いかけていたタマラを受け入れ、自由にさせてくれたのだ。

叔母夫婦は贅沢に暮らしており、室内の装飾はパリの商社メゾン・ジャンサンの担当したものだった。タマラは終生忘れることがなかった――ジャンサンのスタンプが前面に押された、フランスからの非常に大きな包み・・・・・・山のような薄葉紙を破き、薄手のブラウス、小さなボタンやリボンや蝶形リボンで一杯の、手で刺繍されたドレスなど、美しい衣類を引き出すときの格別のよろこび・・・・・・。
ステファ叔母さんは姪のタマラに浅底の秘密の引き出しを開けさせて、その夜叔母自身が身に着ける宝石を選ばせることもあった。ダイヤ、ルビー、エメラルドなど、それぞれに専用の引き出しがあった。突然、タマラは自分がどのように生きたいかがはっきりとわかった。
- 『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』 より

1913年、15歳になったタマラは叔母の家族と訪れたオペラ劇場である青年に一目惚れをする。
タデウシュ・レンピッカという美男子で、レンピッカ家という大地主の家系に連なる弁護士でありながら、遊び好きの好色漢と知られる人物で、劇場にも美しい女性を二人伴ってやってきていた。
当時、ペトログラードの社交界でタマラの是が非でも自分のものにしたいという欲望を喚起させた人物はこのタデウシュ・レンピッカが初めてで、幕間にタデウシュ・レンピッカを見かけたタマラは相手の印象に残るよう、大げさにお辞儀をして見せた。
その後叔母夫婦が仮面舞踏会を開いた時にタデウシュも招待され、タマラはそこで趣向を凝らした登場をした後に改めて自己紹介をし、タデウシュに以前の出会いを思い出させた。
このタマラの恋は募る一方なのだが一家はあまりよい顔をせず、特に叔父は年齢差や弁護士といってはいるが無職同然で、しかも女遊びが盛んなタデウシュ・レンピッカへの恋心に難色を示す。
大戦の戦局次第ではこの恋の行方は違う結末を迎えていたかもしれないが、1915年8月にドイツがポーランドに侵攻し、タマラは実家に帰る機会を逸してしまったことで、次のようなやり取りが叔父を介して行われることになったのである。

叔父がため息混じりで、「それでタマラ、自分の人生をどうする気だね?」と問いかけると、結婚するなら、どうしてもあのタデウシュ・レンピッカとでなければいやだ、とタマラは答えた。・・・・・・叔父はレンピッカと交際があったので、訪ねて行った。「いいかね」と叔父は話を切り出した。「包み隠さず話すとしよう。きみは世慣れているが、財産はあまりない。こちらには結婚させたい姪がいる。ポーランド人だ。姪との結婚を承諾してくれれば、持参金を付けよう。ともかく、きみもかねてから知っている娘だ。」
- 『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』 より

かくして1916年、タマラ・グルスカは念願叶ってタデウシュ・レンピッカとペトログラードのマルタ騎士団付属礼拝堂で結婚に至った。
タマラの恋について、1991年に翻訳された 『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』 を基に纏めて来たが、Wikipedia の記述では些か細部や経緯などが異なっているので、併せて引用しておこう。

1916年、叔父のコネを利用して、その男性と結婚する。男性はタデウシュ・ウェンピツキというポーランド人弁護士で、スマートな美男子の女たらしとして有名で、結婚したのも持参金が目当てだったとも言われることがあるが、タデウシュが当時金銭的に困窮していた形跡はなく、一方で当時のポーランド人の社交界の女性の間では女性経験の豊富な美男子を獲らえて結婚することが優れた女の証、亭主は価値ある女である自分を美しい芸術作品として引き立たせるためのただの「額縁」、浮気は女のウサ晴らし、などという女性主導の自由奔放な文化があったことから、激しい性格でプライドが高く競争心の強いタマラの方が、タデウシュに群がる他の女たちを押しのけて金銭で釣るなども含めてあの手この手で彼を獲得することに躍起になったというのが真相のようである。

『タマラ・ド・レンピツカ 激情のデッサン』 では二人の結婚からパリに移り住む間の出来事についてまとめた章に 「フィンランド駅へ」 というタイトルを付けている。
このタイトルはエドマンド・ウィルソンの 『フィンランド駅へ』 という著書から借用したもので、ウィルソンはその著書でヴィーゴを発見して興奮するジュール・ミシュレに始まり、弾圧を逃れフィンランドにいたレーニンが革命の知らせを受けてペトログラードのフィンランド駅に辿り着き、集まった群衆に 「親愛なる同士諸君、兵士、水兵、労働者たちよ!」 と演説するまでの社会主義思想の歴史と群像を余すことなく書き記しているのだが、プロレタリアートとは対極の立場にいた若きレンピッカ夫妻は、この革命で幸せの絶頂から突き落とされることになる。
ある日、反革命的・反動的政治グループの活動に関与していたという理由でタデウシュが逮捕され、いずこかに拘留されてしまう。
タマラは手を尽くして夫を探すも見つけることが出来ない。
途方に暮れていたところ、スウェーデンの領事が私がお役に立てるかもしれないと声をかけてきた。
この話があってしばらくした頃、領事は使いをよこしてあなたの夫が見つかりましたと知らせてきたが、反動分子として拘留された者を逃がすのは難しい、しかし、経費如何によっては何とかなるかもしれないと足元を見る要求、要するにタマラ自身を対価として差し出せと暗に要求してきたのだ。
タマラそれを清算した。
あなたにも危害が及ぶ恐れがあるから、私とともにコペンハーゲンまで非難すべきだ、あなたがここに残っていても出来る事は何もありはしないのだからと件の領事が半ば強制ともいえる助言をしてきたが、タマラは返事を渋っていたが結局同意し、フィンランド駅経由でコペンハーゲンに逃れ、夫の到着を待つことになった。
6週間に亘ってボルシェヴィキに尋問された夫のタデウシュはなんとかコペンハーゲンのタマラのもとに辿り着くことが出来たのだが、以前とは別人のように陰鬱な人物となってしまっており、タマラは夫のその変わり様を嫌悪した。
ちょうどその頃、結婚披露宴で見かけ、心惹かれるところのあったシャムの外交官とコペンハーゲンで再会し、タマラはこの人物と隠すことなくおおびらに交際するようになり、ロンドンで贅沢な時間を過ごしたりしたのである。

最初の結婚はこの時点ですでに破綻していたのだが、二人は今しばらく生活を共にすることになる。
以上が1918年頃までの出来事で、この時点ではタマラはまた画家ではない。
レンピッカについては、二度か三度に分割してエントリを立てようと計画しているので、今回はここまで。
ということで、続きはいずれそのうちに。


ポストしたのは、

《緑色のブガッティに乗るタマラ (Auto-Portrait (Tamara in the Green Bugatti))》 (1925)
《手袋をした若い淑女 (Young Lady with Gloves)》 (1930)
《若い娘たち (The Girls (Two Girls)》 (1928)
"The Green Turban" (1929)
"Woman with a Green Glove" (1928)
《イレーヌ姉妹 (Irene and Her Sister)》 (1925)
"Suzanna in the Bath (Suzanne au bain)" (c. 1938)
"Nude (Nu adossé II)" (c. 1926)
"Perspective (The Two Friends)" (1923)
"Rhythm" (1924)

の10点。
タマラ・ド・レンピッカの作品の中では 《緑色のブガッティに乗るタマラ (Auto-Portrait (Tamara in the Green Bugatti))》 が最も有名な作品なのではないかと思うが、他にも 《手袋をした若い淑女 (Young Lady with Gloves)》 という作品もグリーンのドレスがとても印象的なこともあって、レンピッカといえば 「緑」 を反射的に思い浮かべてしまう、というフィクションに基づいて、緑を基調とした作品をひとまとめにポストしてみた。
緑を基調としたとまではいかない作品もあるけど、そこはご愛嬌ということで。


Wikipedia - タマラ・ド・レンピッカ
http://cgfa.sunsite.dk/lempicka/lempicka_bio.htm

Karl Lagerfeld × Colette Pechekhonova - Mode Und Kunst -






Karl Lagerfeld (カール・ラガーフェルド)
1933年にドイツのハンブルク (Freie und Hansestadt Hamburg) で生まれた。
本業はファッションデザイナーであるが、ファッションフォトグラファとしても有名。

1952年、14歳の時にパリにへと移り住んだ。
1954年、21歳でIWS(国際羊毛事務局、現ザ・ウールマーク・カンパニー)のコンクールのコート部門で優勝 (ちなみに、前年の優勝者はイヴ・サン=ローラン (Yves Saint-Laurent)) し、ラガーフェルドはピエール・バルマン (Pierre Balmain) の見習いとなる。
1958年、ジャン・パトゥ(Jean Patou)の下に移り、5年の間オートクチュールコレクションのデザインに携わった。
最初から好評を得たというスタートではなかったらしいが、徐々に好評を得るようになった。
が、軌道に乗り始めた頃、ラガーフェルド本人は燃え尽きたのか、学校で改めて学ぶことを考えたがうまく行かず、浜辺で2年を過ごすことになる。

1962年、フリーランスのデザイナーとして再出発。
この頃、クリスチャン・ディオールの下にいたアルメニアの占い師、Madame Zereakian によく相談に乗ってもらっていたそうなのだが、「ファッションと香水に成功する」 と言われたそうである。
という、胡散臭くも魅力的なエピソードまでをとりあえずまとめておく。


Colette Pechekhonova (コレット・ペクノヴァ)
1980年3月12日にソビエト連邦時代のレニングラード (Ленинград、現サンクトペテルブルク (Санкт-Петербург)) で生まれた。
元ファッションモデル。

子供の頃からバレエを習い、踊っていたという。
大学の薬学部に進学し、在学中にパリのエージェンシーに送ったことがきっかけでモデル業界へ進むことになった。
デビューはフェンディの1999年春/夏コレクション。
売れっ子モデルとなったが、2004年に引退 (その後、2007年にモデルとして活動を再開している)。


スタイリストの嗜好ではなく、カール・ラガーフェルドの嗜好なのだと思うが、ラガーフェルドのエディトリアルには表現主義、キュビスム、未来派、ロシア構成主義といった20世紀美術前半頃のモダニズムに着想を得たものが多い。
今回のエディトリアルのタイトル "Mode Und Kunst" はそれを直截に表していて、その内容ももちろんモダニズム全開となっている。


Magazine: Vogue Deutsch
Issue: 2000 (or 2002)
Title: Mode Und Kunst
Photographer: Karl Lagerfeld
Model: Colette Pechekhonova
Stylist:
Hair:
Make up:


KARL LAGERFELD - Karl is arriving February 2012. Sign up here to be notified of the launch.
Wikipedia - カール・ラガーフェルド
Wikipedia - Colette Pechekhonova

Torkil Gudnason





Torkil Gudnason (トーキル・グヴズナソン、トーキル・グドナソン)
デンマーク出身、現在はニューヨーク在住のフォトグラファ。

サイトのバイオグラフィでも指摘があるように、Torkil Gudnason の撮る作品はシンプルでグラフィックなスタイル。
デンマーク製の古い家具のデザインは、細部は非常に凝ったデザインをしているのに、全体はとてもシンプルにまとまっているように見えるのだけど、それと同じことが Torkil Gudnason の撮る作品にもいえるかも知れない。

ファッションや広告用に依頼されて撮影した作品にも、アートへ昇華させようとする意思が感じられる。

T O R K I L G U D N A S O N
TORKIL GUDNASON
Torkil Gudnason - Fine Art Photography - Meter Gallery
avant-garde fashion photography より

Serge Lutens










"GENERIC IMAGE (真赤な太陽を抱いて泳ぐ女性)", 1980

Serge Lutens (セルジュ・ルタンス)
1942年にフランス北端ノール=パ・ド・カレー地域圏 (Nord-Pas-de-Calais) の首府リール (Lille) で生まれた。
フランスの写真家、映像作家、ヘアスタイリスト、香水のアートディレクター、ファッションデザイナー。

14歳の時、リールのヘアサロンに見習いとして雇われ、キャリアをスタートさせた。
友人でメイクの練習をしたり、写真の実験をするのにモデルのようにポーズを取らせ撮影するなど、独力でキャリアアップを重ね、1962年、パリへ移住し、ヴォーグ誌にメイクやヘアやジュエリーのスタイリストとして雇われた。
1960年代を通し、リチャード・アヴェドン (Richard Avedon)、ボブ・リチャードソン (Bob Richardson)、アーヴィング・ペン (Irving Penn) といったフォトグラファとコラボレートしていくことになる。
1967年 (1968年) から、クリスチャン・ディオールからの依頼でメイクアップの商品開発に携るようになり、12年に渡って同社のために働いた。
ディオールでの仕事の合間に世界各国を旅し、インスピレーションの糧としたそうで、その中でも、1968年のモロッコへの旅と1970年の日本への旅は自分にとって重要な旅となったと後に語っている。

1980年、セルジュ・ルタンスは1965年のアメリカ進出から始まった世界進出の更なるステップを目指す資生堂から、イメージ・クリエイターに迎え入れられ、新たなイメージ作りに取り組むことになり、両者の関係は2000年まで20年続く。
資生堂名誉会長の福原義春は当時のことを回想し、次のように語っている。

1980年に資生堂が彼と契約を結ぶとすぐに、私たちの濃密な時間が始まった。
強い思いをぶつけ合う連日連夜のディスカッションは、国内外のクリエイターとのコラボレーションの経験を積んできた私にとっても驚きの連続であった。
彼の最初の狙いは、世の中にショックを与えることだった。当時の国際的ブランドは、色彩でアイデンティティーを確立するという手法が当たり前だったが、私たちはそれをしなかった。
セルジュ・ルタンスは「まず、日本を象徴する太陽、その円のイメージを確立する」という最初の広告表現を提案した。
太陽と円のコンセプトは、ロラン・バルト『表徴の帝国』にヒントを得たという。
華麗なイメージを強い哲学が支えていたのだ。
「GENERIC IMAGE(真赤な太陽を抱いて泳ぐ女性)」はこうして生まれた。
その美しさは、世界中の女性たちに新しいSHISEIDOを伝えるのに十分な強さをもっていた。
続いてセルジュ・ルタンスは、円=SHISEIDOのイメージが浸透していくにつれて、円の大きさを少しずつ小さくして、ついにはモデルの女性が円の外に出るまでの一連のシリーズを制作した。
この過程で、イメージは脳裏に焼きついて記憶になった。
その情報は、意識下においても新しい情報の感受と生成を助け、その次に現れるイメージ、まだ見ぬイメージまでも映像にしてしまったのではないか。
この「イメージのリフレイン」という大胆かつ細心な戦略は私を魅了した。
セルジュ・ルタンスは自らを「時の旅人」と称したことがある。
私はこのごろ、自分もあのときから、彼と同じ記憶を求めて時空を超えて旅しているのかもしれない、とさえ思うことがあるのだ。

回想の中で言及されている "GENERIC IMAGE (真赤な太陽を抱いて泳ぐ女性)" はこのエントリで一番最初にポストしてあるイメージ。
セルジュ・ルタンスが "GENERIC IMAGE (真赤な太陽を抱いて泳ぐ女性)" を制作するに当たってコンセプトとした 「日本を象徴する太陽、その円のイメージ」 はロラン・バルトの 『表徴の帝国』 からヒントを得ているという。
その 『表徴の帝国』 には 「中心 - 都市 虚空の中心」 と題された有名な章があり、その後半部でバルトは次のように述べている。

わたしの語ろうとしている都市 (東京) は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。毎日毎日、鉄砲玉のように急速に精力的ですばやい運転で、タクシーはこの円環を迂回している。この円の低い頂点、不可視性の可視的な形、これは神聖なる《無》をかくしている。現代の最も強大な二大都市の一つであるこの首都は、城壁と濠水と屋根と樹木との不透明な環のまわりに造られているのだが、しかしその中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市のいっさいの動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、〔非現実的で〕想像的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである。
- ロラン・バルト 『表徴の帝国』

La ville dont je parle (Tokyo) présente ce paradoxe précieux : elle possède bien un centre, mais ce centre est vide. Toute la ville tourne autour d'un lieu à la fois interdit et indifférent, demeure masquée sous la verdure, défendue par des fossés d'eau, habitée par un empereur qu’on ne voit jamais, c'est-à-dire, à la lettre, par on ne sait qui. Journellement, de leur conduite preste, énergique, expéditive comme la ligne d'un tir, les taxis évitent ce cercle, dont la crête basse, forme visible de l'invisibilité, cache le "rien" sacré. L'une des deux villes les plus puissantes de la modernité est donc construite autour d'un anneau opaque de murailles, d'eaux, de toits et d'arbres, dont le centre lui-même n'est plus qu'une idée évaporée, subsistant là non pour irradier quelque pouvoir, mais pour donner à tout le mouvement urbain l'appui de son vide central, obligeant la circulation à un perpétuel dévoiement. De cette manière, nous dit-on, l'imaginaire se déploie circulairement, par détours et retours le long d'un sujet vide.
- Roland Barthes "L'Empire des signes"

この 『表徴の帝国』 からの引用を踏まえ、福原義春の回想を読み返すと面白い。


Parfums Serge Lutens - Le Site Officiel de la marque Serge Lutens
Wikipedia
Serge Lutens | Stilista e fotografo francese
Flickr: Archive of the mimip's photostream: Taken on 8th November 2009
Serge Lutens - a set on Flickr
Serge Lutens - a set on Flickr
лютенс - Лента последних добавленных записей
Fashion Vs. Art: Serge Lutens
serge lutens beauty - results 3-b-s
Untitled - 資生堂 - PDF!!

Giovanni Gastel











Giovanni Gastel (ジョヴァンニ・ガステル)
1955年12月27日にミラノ () で7人兄弟の末っ子として生まれた。
フォトグラファ。

映画監督ルキノ・ヴィスコンティ  (Luchino Visconti) の甥に当たる。

1967年、12歳で芸術的な才能を示し始め、実験的な劇団に加わり、17歳までそこで活動をした。
詩への情熱も持ち合わせていたジョヴァンニ・ガステルは、 当時、『カスバ (Casbah)』 と呼ばれる詩集も発表している。
ガステルが写真と出合ったのは1970年代になってからのことで、しばらくの間見習いとして技術の習得に努めた。
1975年から1976年にかけ、オークションハウスのクリスティで働き、この期間に結婚式の写真やポートレイト、キッズ・ファッションを撮影し、更なる経験を積んでいる。
転機が訪れたのは1981年、エージェントのカルラ・ギグリエリ (Carla Ghiglieri) がガステルをファッションの世界へと導いてからのことで、Annabella 誌 でフォトグラファとして本格的なキャリアをスタートさせ、1982年には 『ヴォーグ・イタリア (Vogue Italia)』 で活動するまでになり、エディモーダ社 (Edimoda) のディレクター、フラヴィオ・ルッキーニ (Flavio Lucchini) やジゼッラ・ボルミオリ (Gisella Borioli) と出会ったおかげで 『モンドウオモ (Mondo Uomo)』 や 『ドンナ (Donna)』 といったファッション誌でも活動する機会を得、その後活動の場を世界に広げ、特にパリのファッション誌とコラボレートする機会が増えていった。

1980年代中期には、自身のスタジオ Gastel&Associati を設立し、後進の若いフォトグラファの育成にも取り組んでいる。

ガステルが参照にするのは、1970年代初期から足繁く通ったミラノのロトンダ・デッラ・ベサーナ (Rotonda della Besana) ――バロック後期の建築物で、それを美術館として利用している――の展示で見る機会の多かったポップアート、そしてアーヴィング・ペン (Irving Penn) だという。
また、芸術好きの母親のおかげで思春期から触れることの多かったルネッサンス芸術の研究がインスピレーションの源で、優雅さの理想に絶えず引き戻されているとのこと。


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Sonia Rykiel Runway - Paris Fashion Week Spring Summer 2006 -






Sonia Rykiel (ソニア・リキエル)
1930年5月25日にパリで生まれたファッションデザイナー。
1968年にソニア・リキエル自身の名を冠したブランド 『ソニア・リキエル』 立ち上げた。

ポストした写真は、2005年10月上旬に開催されたパリコレで2006年春夏コレクションのランウェイを撮影したもの。
披露されたコレクションの最初のシリーズはドイツ出身のアメリカ人画家、リチャード・リンドナー (Richard Lindner) の作品へのトリビューとなっており、当時の海外のレヴューにその点について触れたものがり、ファッション情報のサイト 「Fashion Street ファッション・ストリート」 に日本語でまとめられた記事があったので引用しておこう。

Sonia Rykiel ソニア・リキエル
ソニア・リキエルはパリのイメージを採り入れたコレクション。冒頭に登場したのは、アーティスト、リチャード・リンドナーの絵に着想を得たマルチカラーのコートやドレス。エッフェル塔のブローチに犬の形をしたバッグ。フィナーレは「elle aime(彼女が好きなのは)」と書いたセーターに続き、「人生」「チョコレート」「バラ」「美」「音楽」「男」など様々な言葉が並ぶ。プログラムノートには「私の最も好きなラブ・ストーリーはあなたのです」という文字。

Wikipedia
Sonia Rykiel Spring/Summer 2006 Paris - Ready-To-Wear - Catwalk report (Vogue.com UK)
fashiontv | FTV.com - SONIA RYKIEL S/S 2006 PARIS - YouTube
2006春夏パリコレクション
My Way - Fashion & Beauty

Richard Lindner











Richard Lindner (リチャード・リンドナー)
1901年11月11日、ドイツのハンブルクにおいて、ユダヤ人で店員として働いていた父親とニューヨーク生まれのドイツ系アメリカ人の母親との間に生まれた。
1978年4月16日、ニューヨークのアパートにおいて心臓発作で死去。
ドイツ系アメリカ人の画家。

1905年頃から一家はニュルンベルクに移り住んだ。
1922年、リチャード・リンドナーは地元のニュルンベルク工芸学校 (Kunstgewerbeschule、現在のニュルンベルク美術アカデミー (Akademie der Bildenden Künste Nürnberg)) へと進学するが、その前にピアニストを目指し音楽を学んでいた時期があったという。
1924年から1927年までミュンヘンで暮らし、1925年からミュンヘン美術大学 (Kunstakademie、現在のミュンヘン美術院 (Akademie der Bildenden Künste München)) で学んだ (この辺りの経歴がバイオグラフィによって区々なのだが、ここでは Wikipedia の記述に従った)。
1927年にベルリンへ 移り、 フリーランスの商業アーティストとして活動を始め、広告デザイナー、漫画家としても仕事の依頼を受け、また、大手出版社のウルシュタイン社とも仕事をするなどして2年間同地で過ごしている。

1929年、Knorr & Hirth 社で 働くために、以前学生生活を送ったミュンヘンへと引越す。
1930年夏、ニュルンベルクの学生時代から交際を続けていたエリザベト・シュレイン (Elsbeth Schülein) と結婚。
1933年まで、新聞、雑誌、書籍の出版のためのイラストレーターとして働いた。

不況を背景に躍進を続けていたナチ党が政権の座に着いた1933年に妻のエリザベトと共にパリへと逃れたが、エリザベトがファッション関係の仕事に就けたのとは対照的に、リチャードは満足に仕事ができなかったという。
世界情勢が日々悪化してゆき、ついに第二次世界大戦が勃発。
パリで暮らす多くのドイツ人やオーストリア人が敵性外国人として拘留され、当然リンドナー夫婦も拘留されてしまい、リチャード・リンドナーはブルターニュでの強制労働送りとなって、夫婦は引き離されてしまう。
戦況が悪化し、ドイツ軍がパリを占拠すると、リチャード・リンドナーはなんとかリヨンまで逃れ (フランス軍に入隊していた時期があるらしいのだが、いつ頃のことなのか、具体的な時期が今ひとつ判明しなかった)、そこで妻のエリザベトがカサブランカに逃れていること、友人のジョセフ・ボーンスタインと一緒であること、そしてふたりが恋に落ちていることを知る。
1941年3月17日、リチャード ・リンドナーはニューヨークに辿り着いたが、妻とジョセフ・ボーンスタインはすでに同地で暮らしており、リチャードとエリザベトは正式に分かれ、それぞれの人生を歩んでいくことになった。
この別離はリチャード・リンドナーのアメリカで新しい生活を始めた当初、暗い影を落とした。

リンドナーはニューヨークで商業アーティストとして活動を始め、Vogue、Harper's Bazaar、Fortune を始め、 多くの雑誌や書籍に作品を提供。
商業アートの世界で成功を収めることになる (1940年代の商業イラストを探してみてもあまり見つけることが出来ず、FORTUNE ILLUSTRATORS, Richard Lindner で 『フォーチュン (Fortune)』 誌に掲載されたイラストをまとめて見られるくらいなのが残念。また、ドイツやフランス時代の作品に至っては見つけることが出来ない)。
1948年11月15日、米国の市民権を取得。
1950年、リンドナーはパリに長期滞在し、その後の方向を決めることになるスタイルのの基礎固めを改めて行う。
後にこの滞在期間のことを回想し、

"I went back to Paris for six months, and the journey was my farewell to Europe. I realized that you don't become an American in America – you become one on returning to Europe."

意訳すると、「パリに戻って6 ヵ月過ごしましたが、これはヨーロッパに別れを告げる旅でした。アメリカで暮らし、市民権を獲得したからといって、生粋のアメリカ人になれることが出来る訳ではく、結局自分の根っこはヨーロッパなのだということを理解したのです」 と、述べている (多分)。

1901年にドイツで生まれたリンドナーは、フランスのキュビスムやダダイスムやシュルレアリスムといった現代美術の潮流、そしてドイツ国内の表現主義から新即物主義への移り変わりも、その眼で見ることが出来たのであり、多感な時期のそうした新しい多くの表現に触れたという経験から多大な影響を受けているということは、リンドナーの作品から窺い知ることが出来るだろう。
例えば、ジョージ・グロス (George Grosz)  や オットー・ディクス (Otto Dix)、マックス・ベックマン (Max Beckmann) といった画家たちの影をリンドナーの作品に見ることは容易い。
つまり、古典的モダニズムこそがリンドナーのスタイルなのである。

こうして、それまで商業アートの世界で活動してきたリンドナーは、油画の制作を優先することに決め、1952年になると商業アートの世界から足を洗い、油絵の制作に本格的に取り組み始めた。

1952年、ブルックリンのプラット・インスティテュートから教育職のポストを提供され、1960年、同校の美術学部の助教授となり、1966年まで講義をし続けた。
1954年、ニューヨークのベティ・パーソンズ・ギャラリーにおいて、初の個展を開催。

創作活動においては、1960年代初期は、ニューヨークという都市とそこに暮らす人々――例えば、アップタウンの派手やかな暮らしを謳歌する女性やアップタウンの老女の行き過ぎたのメイキャップやヘアスタイル、ファッション――からインスピレーションを得て作品を制作し、アンディ・ウォーホルを始めとするポップ・アートのアーティスト達に影響を与えた。
非商業アートの世界ではマージナルな存在であったチャード・ リンドナーが注目を集めるようになったのは、ポップ・アートのアーティスト達への影響ゆえのことであったのだが、リンドナー自身はポップ・アートと自分の目指していたスタイルは関係がないと言ったといわれている。


ポストしたのは、

"West 48th Street" (1964)
"Thank You" (1971)
"UNTITLED No. 1" (1962)
"Double Portrait" (1965)
"The Corset" (1954)
"Angel in Me" (1966)
"42nd Street" (1964)
"Ace of Clubs" (1973)
"The Meeting" (1953)
"The Street" (1963)

の10点。


Catalogue Raisonné; of Richard Lindner
Wikipedia
Richard Lindner - WikiPaintings.org
History of Art- Lindner Richard
Works - Richard Lindner - Artists - Galerie & Edition Bode
Стильное искусство художника Ричард Линднер | XXe | Richard Lindner » АртГрафика - скачай бесплатно | картинки | шаблоны | клипарты | фотошоп | футажи
Cascadia Fine Art Inc. - Artworks by Richard Lindner - 1
Hirshhorn Museum and Sculpture Garden
Richard Lindner - Artworks
FORTUNE ILLUSTRATORS, Richard Lindner
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THE MAGAZINE | RICHARD LINDNER
Lindner, Richard