Thursday, June 29, 2006

Richard Lindner











Richard Lindner (リチャード・リンドナー)
1901年11月11日、ドイツのハンブルクにおいて、ユダヤ人で店員として働いていた父親とニューヨーク生まれのドイツ系アメリカ人の母親との間に生まれた。
1978年4月16日、ニューヨークのアパートにおいて心臓発作で死去。
ドイツ系アメリカ人の画家。

1905年頃から一家はニュルンベルクに移り住んだ。
1922年、リチャード・リンドナーは地元のニュルンベルク工芸学校 (Kunstgewerbeschule、現在のニュルンベルク美術アカデミー (Akademie der Bildenden Künste Nürnberg)) へと進学するが、その前にピアニストを目指し音楽を学んでいた時期があったという。
1924年から1927年までミュンヘンで暮らし、1925年からミュンヘン美術大学 (Kunstakademie、現在のミュンヘン美術院 (Akademie der Bildenden Künste München)) で学んだ (この辺りの経歴がバイオグラフィによって区々なのだが、ここでは Wikipedia の記述に従った)。
1927年にベルリンへ 移り、 フリーランスの商業アーティストとして活動を始め、広告デザイナー、漫画家としても仕事の依頼を受け、また、大手出版社のウルシュタイン社とも仕事をするなどして2年間同地で過ごしている。

1929年、Knorr & Hirth 社で 働くために、以前学生生活を送ったミュンヘンへと引越す。
1930年夏、ニュルンベルクの学生時代から交際を続けていたエリザベト・シュレイン (Elsbeth Schülein) と結婚。
1933年まで、新聞、雑誌、書籍の出版のためのイラストレーターとして働いた。

不況を背景に躍進を続けていたナチ党が政権の座に着いた1933年に妻のエリザベトと共にパリへと逃れたが、エリザベトがファッション関係の仕事に就けたのとは対照的に、リチャードは満足に仕事ができなかったという。
世界情勢が日々悪化してゆき、ついに第二次世界大戦が勃発。
パリで暮らす多くのドイツ人やオーストリア人が敵性外国人として拘留され、当然リンドナー夫婦も拘留されてしまい、リチャード・リンドナーはブルターニュでの強制労働送りとなって、夫婦は引き離されてしまう。
戦況が悪化し、ドイツ軍がパリを占拠すると、リチャード・リンドナーはなんとかリヨンまで逃れ (フランス軍に入隊していた時期があるらしいのだが、いつ頃のことなのか、具体的な時期が今ひとつ判明しなかった)、そこで妻のエリザベトがカサブランカに逃れていること、友人のジョセフ・ボーンスタインと一緒であること、そしてふたりが恋に落ちていることを知る。
1941年3月17日、リチャード ・リンドナーはニューヨークに辿り着いたが、妻とジョセフ・ボーンスタインはすでに同地で暮らしており、リチャードとエリザベトは正式に分かれ、それぞれの人生を歩んでいくことになった。
この別離はリチャード・リンドナーのアメリカで新しい生活を始めた当初、暗い影を落とした。

リンドナーはニューヨークで商業アーティストとして活動を始め、Vogue、Harper's Bazaar、Fortune を始め、 多くの雑誌や書籍に作品を提供。
商業アートの世界で成功を収めることになる (1940年代の商業イラストを探してみてもあまり見つけることが出来ず、FORTUNE ILLUSTRATORS, Richard Lindner で 『フォーチュン (Fortune)』 誌に掲載されたイラストをまとめて見られるくらいなのが残念。また、ドイツやフランス時代の作品に至っては見つけることが出来ない)。
1948年11月15日、米国の市民権を取得。
1950年、リンドナーはパリに長期滞在し、その後の方向を決めることになるスタイルのの基礎固めを改めて行う。
後にこの滞在期間のことを回想し、

"I went back to Paris for six months, and the journey was my farewell to Europe. I realized that you don't become an American in America – you become one on returning to Europe."

意訳すると、「パリに戻って6 ヵ月過ごしましたが、これはヨーロッパに別れを告げる旅でした。アメリカで暮らし、市民権を獲得したからといって、生粋のアメリカ人になれることが出来る訳ではく、結局自分の根っこはヨーロッパなのだということを理解したのです」 と、述べている (多分)。

1901年にドイツで生まれたリンドナーは、フランスのキュビスムやダダイスムやシュルレアリスムといった現代美術の潮流、そしてドイツ国内の表現主義から新即物主義への移り変わりも、その眼で見ることが出来たのであり、多感な時期のそうした新しい多くの表現に触れたという経験から多大な影響を受けているということは、リンドナーの作品から窺い知ることが出来るだろう。
例えば、ジョージ・グロス (George Grosz)  や オットー・ディクス (Otto Dix)、マックス・ベックマン (Max Beckmann) といった画家たちの影をリンドナーの作品に見ることは容易い。
つまり、古典的モダニズムこそがリンドナーのスタイルなのである。

こうして、それまで商業アートの世界で活動してきたリンドナーは、油画の制作を優先することに決め、1952年になると商業アートの世界から足を洗い、油絵の制作に本格的に取り組み始めた。

1952年、ブルックリンのプラット・インスティテュートから教育職のポストを提供され、1960年、同校の美術学部の助教授となり、1966年まで講義をし続けた。
1954年、ニューヨークのベティ・パーソンズ・ギャラリーにおいて、初の個展を開催。

創作活動においては、1960年代初期は、ニューヨークという都市とそこに暮らす人々――例えば、アップタウンの派手やかな暮らしを謳歌する女性やアップタウンの老女の行き過ぎたのメイキャップやヘアスタイル、ファッション――からインスピレーションを得て作品を制作し、アンディ・ウォーホルを始めとするポップ・アートのアーティスト達に影響を与えた。
非商業アートの世界ではマージナルな存在であったチャード・ リンドナーが注目を集めるようになったのは、ポップ・アートのアーティスト達への影響ゆえのことであったのだが、リンドナー自身はポップ・アートと自分の目指していたスタイルは関係がないと言ったといわれている。


ポストしたのは、

"West 48th Street" (1964)
"Thank You" (1971)
"UNTITLED No. 1" (1962)
"Double Portrait" (1965)
"The Corset" (1954)
"Angel in Me" (1966)
"42nd Street" (1964)
"Ace of Clubs" (1973)
"The Meeting" (1953)
"The Street" (1963)

の10点。


Catalogue Raisonné; of Richard Lindner
Wikipedia
Richard Lindner - WikiPaintings.org
History of Art- Lindner Richard
Works - Richard Lindner - Artists - Galerie & Edition Bode
Стильное искусство художника Ричард Линднер | XXe | Richard Lindner » АртГрафика - скачай бесплатно | картинки | шаблоны | клипарты | фотошоп | футажи
Cascadia Fine Art Inc. - Artworks by Richard Lindner - 1
Hirshhorn Museum and Sculpture Garden
Richard Lindner - Artworks
FORTUNE ILLUSTRATORS, Richard Lindner
lindner_bio_e.pdf (application/pdf オブジェクト)
THE MAGAZINE | RICHARD LINDNER
Lindner, Richard

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