Friday, May 26, 2006

Balthus











Balthus (バルテュス)
本名は Balthasar Klossowski de Rola (バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ)。
1908年2月29日にパリで生まれ、2001年2月18日にスイス南西部にあるヴォー州 (Canton de Vaud) のリヴィエラ・ペイ・ダンオ郡 (Riviera-Pays-d'Enhaut) 中部のロシニエール村 (Rossinière) にて没。
フランスの画家。

クロソウスキー家は元々ポーランド貴族の家系だったそうなのだが、19世紀の中頃、ロシアの侵攻で故郷を追われて一家は西へと逃れている。
バルテュスの父エーリヒ・クロソウスキー (Erich Klossowski) はプロシアで生を受け、画家となり、1908年に19世紀のフランスの画家オノレ・ドーミエ (Honoré Daumier) のモノグラフを出版して美術史家として知られるようになった。
母親のバラディーヌ・クロソフスカ (Baladine Klossowska) はプロシアのブレスラウ (Breslau、現在はポーランド領) においてエリザベート・ドロテア・スピロ (Elisabeth Dorothea Spiro) として生を受けた。
ふたりは結婚後、パリへと移り住み、バラディーヌは画家としてのキャリアをスタートさせている。
夫婦はパリで二人の息子を儲けたが、第一次世界大戦中に別れ、別々の人生を歩み始めた。
1919年、バラディーヌはライナー・マリア・リルケ (Rainer Maria Rilke) と出会い、その後しばらくして交際に発展。
バラディーヌがメルリーヌという愛称で呼ばれるリルケ最後の恋人としてリルケが亡くなるまで連れ添ったということは、リルケの愛読者ならご存知の方も多いだろう。

バルテュスの3歳年上の兄は 『ニーチェと悪循環』、『生きた貨幣』 といった評論を著した特異な思想家として知られ、また、マルキ・ド・サドやニーチェの翻訳家、あるいは、『ロベルトは今夜』、『バフォメット』 といった小説の著者としても知られるピエール・クロソウスキー (Pierre Klossowski) で、晩年には妻をモデルにデッサン画を多く描いた。


バルテュスはパリで生まれ幼少期を過ごした。
1914年に第一次世界大戦が始まると、両親がドイツのパスポートを持つ外国人――つまりドイツ国籍の敵国人――であったことから国外退去を余儀なくされ、家族とともにベルリンに移り住んだ。
1917年、両親が離婚し、母親と兄と一緒にスイスのジュネーヴに移住。

1920年、12歳のバルテュスは行方知れずになった愛猫ミツ (Mitsou) の思い出を40枚のスケッチに描き、翌1921年、そのスケッチブックがリルケの序文付きで出版された。
リルケが序文を書くに至った経緯はおおよそ次の通りである。
『マルテの手記』 を完成させた後極度のスランプに陥っていたリルケは、1912年のある日、何かの啓示に導かれるようにして 『ドゥイノの歌』 の 「第一の悲歌」 全篇とそれに続く 「第二の悲歌」 の全篇、そして 「第三の悲歌」 と 「第十の悲歌」 の冒頭を完成させるが、啓示の導きはそこで途絶えてしまった。
是が非でも 『ドゥイノの歌』 を完成させたいという渇望。
リルケはこの詩を完成させるに相応しい創作環境を求めてヨーロッパ各地を転々とする放浪生活を送る。
スペイン、パリ、ミュンヘンとヨーロッパを巡る中で 『ドゥイノの歌』 は書き継がれ、1919年の初夏頃スイスに辿り着く。
そして、友人の紹介でベルクの館にやってきたのが1920年11月のこと。

 スイスのイルヒェル近在のベルクの館。一九二〇年十一月、一人の詩人が一冊の素描集を眺めている。
 「いったい人間は猫たちの同時代者だったことがあるのだろうか?――これは疑わしい。私は敢えて保証するが、ときどき、薄闇の中で、隣家の猫が私に気づかずに、それとも面喰っている事物たちに向かって、私などは存在していないのだということを証明するために、私の体をつきぬけて跳んでゆくようなことだってあるのだ」 と考えている。
 いま、一人の子供のことを思い、自らの漂泊を回想しているのはリルケである。スイスに来る少し前に、晩年に親しく交際した、バラディーヌ・クロソフスカという女性から一冊の素描集を渡された。息子の描いた、"Mitsou" という名の猫の物語絵であった。
- 酒井忠康 「バルテュス譚詩 『嵐が丘』 の挿絵をめぐって」
(阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より)

バラディーヌ・クロソフスカの息子というのは、もちろん、バルテュスを指す。
ベルクの館は申し分ない環境であったのにもかかわらず、詩の創作は低調で、リルケが半年の滞在期間中にものにすることができたのは 『G・W伯の遺稿より』 という、『ドゥイノの歌』 からは独立した詩群だけだったという。
バルテュスのスケッチ集へ寄せた序文はそういった状況の中、リルケとしては珍しくフランス語で執筆された――いや、珍しくというか、リルケが生前公開した唯一のフランス語で書かれた文章だったそうで、フランスの詩人で劇作家としても活躍したシャルル・ヴィルドラック (Charles Vildrac) に宛てた手紙では、

私はおおいにこの文を自慢に思っているのです。と申しますのは、わたしがそれをフランス語で考えたと言えるからです
- ライナー・マリア・リルケ 「シャルル・ヴィルドラックへの手紙」
(『リルケ書簡集』 第3巻より)

と幾分誇らしげに語っている。
バルテュスのスケッチ集 『ミツ』 は1987年に日本でも出版されたが、生憎手元にその本はない。
しかし、上に引用した酒井忠康のエッセイに、リルケの 「猫」 という富士川英郎が訳した散文詩かエッセイの一部が引用されていて、それが 『ミツ』 の序文の一部では?と引用文が収録されている全集の端本を取り寄せてみたところ (なぜ素直に 『ミツ』 を取り寄せてないのか?)、その予想は当たっていた。
底本の全集には "Chats" というフランス語のタイトルで収録されている 『ミツ』 の序文は、富士川英郎が編纂した 『リルケ全集』翻訳版第9巻  《エッセイ・文芸論》 に 「猫」 というタイトルで収録されていて (直訳すると 「猫たち」 となり、リルケの母国語、つまりドイツ語だと、猫は katze で、複数形の場合 katzen となる)、読んでみると、前半は人と猫との関わりみたいなことが書いてあり、それが導入部となって、バルテュスと飼い猫ミツの話へ繋がっていく。

 バルテゥスが (彼はそのとき十歳になっていたと思う) 一匹の猫を見つけた。それはあなたがたもたぶんご存じのニヨンの館での出来事だった。ひとびとはこのふるえている小さな発見物を携えてゆくことを彼に許した。こうして彼は猫といっしょに旅行することになったのである。船のなかでも、ジュネーヴに到着したときも、山の手へたどり着いたときも、電車にのったときも、彼は猫をつれていた。バルテュスは、この新しい仲間を家庭生活へ導きいれた。彼は猫を馴らし、甘やかし、可愛がった。 《ミツウ》 はその提供された身分に喜んで身をまかせ、時どき、ニ、三のおどけた無邪気な即興のしぐさで、家庭生活の単調を破ったりしたのだった。
- ライナー・マリア・リルケ 「猫」
(『リルケ全集』 第9巻  《エッセイ・文芸論》 より)

こうして気まぐれな子猫はバルテュスたち家族の中に溶け込んでいったのだが、ある日、突然姿が見えなくなり、家中大騒ぎ。
といっても、この時は、幸いにも子猫はすぐに見つかって、またバルテュスの日常はミツのいる元の楽しいものに戻り、一年半近くバルテュスと共に過ごしたのである。
しかし、1919年のクリスマス、浮かれたバルテュスが食べすぎで体調を壊し床に臥せっていた数日の間に、ミツは、おそらくは遊び相手のバルテュスがおらず暇を持て余したため、一匹で冒険に出かけ、その勢いでそのまま何処かへと旅立ってしまった。
家族は八方手を尽くしてミツを探したが、ついに見つけ出すことは出来ず、バルテュスは皆の前で泣いたという。
リルケはそういった出来事を慈しみを込めて綴った後、こう続けるのだ。

 ひとつの事物(もの)を見つける。これはいつも愉快なことである。一瞬前までそれはまだなかったのだから。だが、一匹の猫を見つける、これは途方もないことなのだ。なぜなら――まあ、反対しないでもらいたい――例えばなにかの玩具がそうするように、猫はあなたがたの生活のなかへすっかり入りこんでしまうことはないのだから。猫は依然として少しばかり彼方にいる。 (・・・・・・)
 ひとつの事物(もの)を失う。これはずいぶん悲しいことだ。その事物は悪い状態に置かれるかもしれない。何処かが毀われて、その権威を失ったまま、果ててしまうかもしれない。だが、一匹の猫を失う?否、これはあり得ないことなのだ。いままで猫を失った人は誰もいないのである。私たちは一匹の猫を、生きものを、ひとつの生きた存在、ひとつの生命を失うことができるだろうか?だが、ひとつの生命を失う、それは死だ!
 そう、それは死なのだ。
 見つける。失う。あなたがたは喪失ということをよく考えてみたことがあるだろうか?喪失とは単にあなた自身が疑っていなかったひとつの期待をみたしにくる好意ある瞬間が否定されることではない。なぜなら、この瞬間と喪失との間には人々がいつも――不器用に、と私は思っているが――所有と呼んでいるものがあるのだから。
 ところで喪失は、それがどんなに残酷であろうとも、所有に対してはなにもできないのである。喪失は所有を完結する。お望みとあらば、喪失は所有を確実化すると言ってもいいだろう。結局、喪失は第二の獲得なのである。こんどは非常に内面的で、別の強さをもった獲得なのである。
 バルテゥスよ、けれども君はそれを知ったのだ。もはやミツウが見えなくなって、きみは彼をよりよく見るようになったのだから。
- ライナー・マリア・リルケ 「猫」
(『リルケ全集』 第9巻  《エッセイ・文芸論》 より)

 「ひとつの事物(もの)を見つける。 (・・・・・・) 猫は依然として少しばかり彼方にいる」 まては、酒井忠康がエッセイに引用しており、一読した折、さすがリルケ、上手いこと言うなあなどと呆けた印象を持っていたのだけど、少年をいたわり慰める内容が続くのかと全集でその先を読み進めると、慰めるどころか少年バルテュスに弁証法を叩き込むリルケに出会う事態に、え、そういう流れになるの?と吃驚することになる (不幸にも、ここを読んでしまった方の中で、酒井忠康のエッセイを読んだことがあり、それでいてその序文全体を読んだことがないという方は、残念ではあるが驚く権利を失ってしまった。未来においてその立場に立つ方も然り。まあ、たいした問題ではないので、気にする人はほとんどいないだろうし、そんなことでいちいち驚くほどナイーヴではないと思われる方が大半だと思うが)。
リルケは、少年バルテュス (と、この本を手にするであろう子供たち) に向けて書かれたかに思える序文について、先程も引用したシャルル・ヴィルドラックに宛てた手紙で、

わたしがこの書物を子供たちだけに与えるつもりではないことを、この序文はあなたに証明するでしょう。ときとしてまったく無造作な、このようなスケッチの言語は、大人たちの関心も充分に惹きうることでしょう
- ライナー・マリア・リルケ 「シャルル・ヴィルドラックへの手紙」
(『リルケ書簡集』 第3巻より)

と述べていて、この本を子供へのプレゼントとして手にするであろう大人にも届くよう考えて書かれていたのだということが分かって興味深い。
いきなり脱線気味の話題を長く引っ張ってしまったが、バルテュスの作品には猫が描かれていることが多く、澁澤龍彦が 「危険な伝統主義者」 というエッセイで、

 余談にわたるが、子供のころに大そう可愛がっていた、この死んだアンゴラ猫の思い出が、その後のバルテュスの作品にも、しばしば出てくることに注意したい。少女のいる薄暗い室内に、ひっそりと猫のすわっている絵がいくつかある。ドラクロワやボードレールのように、バルテュスの貴族趣味も、たえず猫の魅力に惹かれていたのかもしれない。
- 澁澤龍彦 「危険な伝統主義者」 (『幻想の彼方へ』 より)

と指摘しているように、それはバルテュスが子供の頃に可愛がっていたターキッシュアンゴラ (アンゴラ猫) のミツの記憶の反映のように思われるので、少々脱線した内容も含めてまとめてみた。


さて、バルテュスが本格的に絵を描き始めたのは16歳頃のことだった。
画家であった父エーリヒの家に出入りしていたアンドレ・ドラン (André Derain) やアルベール・マルケ (Albert Marquet) といったフォーヴィスム (野獣派) の画家、ナビ派の画家のピエール・ボナール (Pierre Bonnard) らに可愛がられ、絵を描くうえでも影響を受けている。
といっても、直接指導を受けたというのではなかったらしく、絵を描くこと自体はルーヴル美術館で古典絵画を模写するなどしてほぼ独学で学んだのだという。

1924年にパリのドリュエ画廊でバルテュスの最初の個展が開催されたらしいのだが、この時はなんら注目を集めることはなかった。
1926年、バルテュスはフィレンツェを訪問し、滞在中は初期ルネサンスの巨匠たち――その中でも特にピエロ・デラ・フランチェスカ (Piero della Francesca) ――の作品の研究に励み、大きな影響を受けている。
1927年にスイスのベルン州 (Kanton Bern, Canton de Berne) 南東部にあるインターラーケン郡 (Interlaken) の片田舎、ベアテンベルク (Beatenberg) のプロテスタント教会の壁画をテンペラで描いたが、そこにはピエロ・デラ・フランチェスカからの影響がみられたという。
しかし、この壁画は描かれた七年後に聖像破壊運動を掲げた牧師たちによって破壊されてしまい、現在は壁画それ自体が残っていない (Beatenberg: Evangelisch-reformierte Kirchgemeinde / Kirche Balthus-Fresken に事のあらましと当時撮影された壁画の写真があるので興味のある方はどうぞ。※ただしドイツ語)。

バルテュスは1930年からモロッコで暮らしていたが、現地で徴兵され、1932年まで秘書として働いた。

退役後パリに戻ったバルテュスは、1934年、ピエール画廊で個展を開催。
アントナン・アルトーやアンドレ・ブルトンといったシュルレアリストたちに発見され、注目を集める。

バルテュスは、まず光の形を描く。壁や床や椅子、あるいは皮膚の光によって、彼は私たちに、そのざらついた面と共に浮き出してくる一つの性器を持った身体の神秘のなかにはいり込むように誘うのである。
- アントナン・アルトー 「ピエール画廊におけるバルテュス展」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

引用したのは、画家バルテュスを論じた文章としては最も早いもののひとつとして知られるアルトーの 「ピエール画廊におけるバルテュス展」 の一節。
アルトーはこの一節にの後に、展示会に出品されていた 《キャシーの化粧》 がクルーペの 《画家のアトリエ》 の一部を下敷きにした作品で、リアリズムを基調としていながら、まるで夢想の様に見る者に迫る作品となっていることの驚きについて述べているが、驚かされるのは、やはり、この段階ですでにバルテュスの作品における光に注目しているという点だろう。

この個展を開催したピエール画廊オーナーのピエール・ロエブは、友人の紹介で初めてバルテュスのアトリエを訪れた時のことを後に回想している。
ロエブはその当時、写実主義的で見る側に新しい表現の登場を感じさせる作品に久しく出合っていなかったそうで、そんな中で目にしたバルテュスのタブローの一群に驚嘆し衝撃を受け、特に強烈な印象を残す 《街路》 については、

 構図をつつみこむ暖かな小麦色の光の中で、人物たちは行き交う。この場面はとこで起きているかは知らないが、この通りは、画家の住んでいたフェルステンペルグ広場からジャコブ街へ抜ける道であるようだ。
 スーラの 《グランド・ジャット島》 の人物たちと同じに、ここでも人物たちは立ちすくんでいるが、「ポーズ」 のうちにでなく、「スナップ」 のうちになのだ。ドガの人物たちのように、動いている最中、行動している最中に捉えられているのではなく、その場で石と化したかのようだ。
 (・・・・・・) 一人の少年が進んでいく。彼の視線は夢のなかに迷い込む。彼の腕の振りが、自動人形の仕草さながら停止するかたわら、その夢をこわしてはならないと無意識に遠ざかる少女は、自らの夢を追ってゆく。
 ……役者たちがみな夢遊病者であるかのような、そんな不思議な夢を見ている気がする。造型的な平衡とリズムが、着想と完全に合致するこの完全な構図からは、不安を引きおこす雰囲気がかもしだされる。
 ……この驚くべきタブローは、夢への逃避と、夢遊病の過程を経ての、明日の現実への回帰とのあいだの、一つの中継的段階の道しるべをなすのである
- ピエール・ロエブ 《街路》
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

と、見る者に不安を与え、だけども心惹かれてしまう 《街路》 という作品の魅力について上手くまとめており、これを以て嚆矢とす、なのかは不明だが、その後多くの人が 《街路》 の魅力について異口同音に語ることになる指摘の最初期のものといえよう。
そして、ロエブが指摘した動作の瞬間を捉えたというよりは、その世界そのものが石化してしまったかのようだという 《街路》 のこの特徴は、 この作品だけの特徴に留まらず、その後のバルテュスが描くことになる作品の際立った特徴ともなり、多くの人はこの作品の特徴をバルテュスの作品の特徴へと敷衍したかのように語ることになる。
例えば、アルベール・カミュ (Albert Camus) がバルテュス展に寄せた文章。

バルテュスはモデルに限りなく密着して選びとり、感動を、また情景を定着するのだが、その精確さたるや、まさに一枚の鏡を透かして、一種の魔法の力で、永久にではなく五分の一秒間、過ぎてしまえばまた動き出すようなほんの束の間だけ石と化した人物を眺めているような気がするほどである。
(・・・・・・) バルテュスを通じてわれわれが学ぶのは、これまで自分が現実の見方を知らなかったということであり、我々のアパルトマン、なじみの人びと、なじみの街路が、実は不気味な相貌をひそめているのにわれわれはそれに眼を閉ざしていたということなのだ。
- アルベール・カミュ 「忍耐強い泳ぎ手」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

あるいは澁澤龍彦の次の件。

 もう一つ、バルテュスの世界を特徴づける顕著な傾向は、その描かれた人物たちの姿態に見られる、運動の束の間の欠如であろう。彼らはいずれも、あたかも活人画の人物のように、一瞬、運動を停止して凝固したかのような、不自然な宙ぶらりんの状態に釘づけにされている。しかも、この状態は永遠につづくとは思われず、やがて数秒後ないし数分後には、彼らはふたたび運動を開始するであろうことを確実に予想させる。つまり、描かれた世界はあくまで一時的な、休止の状態、猶予の状態なのだ。これがバルテュスの作品世界に、あの何ともいえない不安定の感覚、あるいはまた、取りつく島のない、奇妙なよそよそしい、一種の疎外の感覚をあたえる、主要な要因でもあろうかと思われる。
- 澁澤龍彦 「危険な伝統主義者」 (『幻想の彼方へ』 より)

このように、ロエブの指摘をなぞるがごとく、カミュ、澁澤は、 《街路》 に代表されるバルテュスの諸作品において顕著な傾向――日常の裂け目から垣間見えた世界の不安感や不気味さ、あるいは、流れゆく日常の一瞬を切り取ったというのではなくまるで時が凍りついたとでもいうべき世界が描かれているという印象を語っている。
バルテュスの作品にそのような傾向があるというのは確かにそうではあるのだが、それが最も分かり易いかたちで見て取れるのは、やはり、 《街路》 で、詩人であり、美術評論家としても活動した岡田隆彦は、一見、平凡で何の変哲もない光景を描いたかに見える作品 《街路》 には、

(・・・・・・) それでもなお不思議な雰囲気がただよっている。画面のなかで往きかう人びとや佇んでいる人、道端で遊んでいる子供たちは、おのずから互いに見較べられながら見られていることになるので、それゆえ一つ一つの図像にたちかえって見るとき、不自然な仕草でとらえられているようにうつる。いずれも硬直している感じだ。それは、画面のほぼ対角線上に見える大きな道具を肩にのせて、道を横切ろうとしている大工の姿によくあらわれているが、いずれの人物像も、写真と同じように、じっさいには変化しながら継続しつつある動作の瞬間を、停止させてとらえたものになっているせいかもしれない
岡田隆彦 「醒めて夢みる――バルテュス」 (『夢を耕す』 より)

からだと述べ、そして更に、持続する時間の一瞬を捉えたというのではなく、それが停止させられているところを描いたような、その化石のように硬直した人物像は、ジョルジュ・スーラ (Georges Seurat) の 《グランド・ジャット島の日曜日の午後 (Un dimanche après-midi à l'Île de la Grande Jatte)》 からの影響があるのだろうと、その特異なスタイルの来歴を考察している。
バルテュスの作品の停止した時間や石化した人物といった特徴は見る者に不思議な印象を与える、あるいは不安感や疎外感を与えるという印象論に終わらず、時間の問題として捉えなおした坂崎乙郎は 「見えぬものと見えるもの」 というエッセイの中で、

 通常、私たちは絵のなかに、事物と空間の関係をたずねようとする。時間は一応外されている。
 ところが、クルーペのレアリスムを学んだバルテュスの制作に一貫しているのは、疑いもなく時間の問題で、エロティシズムだけが彼の本領ではない。初期の 〈街〉 でも、時間は停止して、通行人の奇妙な動作が今度は時計の針と逆に始まりそうな気配である
- 坂崎乙郎 「見えぬものと見えるもの」 (『画家のまなざし』 より)

と、 《街路》 を例に語り始め、ついでガエタン・ピコンの著書から《街路》 と同じく初期を代表する作品 《山》 における時間の問題に触れた部分を引用し、バルテュスが 《山》 で何を目指したのか語っていく。
こちらもこのまま 《山》 に話を移したいところだが、もう少し 《街路》 についてのまとめを続けたい。

さて、《街路》 は、ピエール・ロエブが言うように、バルテュスが当時住んでいたパリ第六区のオデオン近くのフェルステンペルグ広場からジャコブ街へ抜ける道を舞台にしている作品ということが知られている (その場所を舞台にバルテュスへのオマージュを捧げた作品を制作した写真家もいるので、その内エントリを立てる予定)。
こういうと、画家の生活している周辺で、身近だから作品の舞台として選ばれたと思われるかもしれないが、どうもそう単純なものではないらしく、峯村敏明が 「表皮―眼差し―光―表皮」 というバルテュス論において、どうしてその場所が作品の舞台として選ばれたのか考察しているので、そちらに付き合ってみたい。
峯村はその考察の前段として、まず、バルテュスの作品の主題を 「街頭の黙劇」、「挑発の少女」、「夢の少女」、「風景」 の四つに分類し、《街路》 は 「街頭の黙劇」 に該当する作品としている。
四つに分類した主題の一つといっても、「街頭の黙劇」 を主題とした作品は他の主題ほど多くはなく、多く見積もっても十点ほどで、「バルテュスらしさ」 のある作品となると、《街路》 とその19年後に 《街路》 を反復するように描かれた 《コメルス・サン・タンドレ小路》 があるくらいだという。
とはいえ、二十年近くを経て同じ主題の作品が扱われるということは、バルテュスにとってこの主題が重要な意味を持つもつことの表れだったのではないか、というのが峯村の主張で、この二作の共通点を二つ挙げている。

(・・・・・・) 一つは、すでに引用したカミュの言葉が的確に伝えているように、日常世界に起こる一瞬の凝固、宙吊りの時間が喚び起こす神秘的な雰囲気であり、第二は、黙劇の舞台が、いずれも、前方を建物でふさがれた中ぐらいの奥行きを持つT字形の街路だということである。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

一つ目に挙げられた共通点は、ロエブの指摘を皮切りに複数の人が異口同音の印象を語っていることをカミュ、澁澤、岡田、坂崎の引用から確認したところなのでおくとして、ここで注目したいのは二つ目の黙劇の舞台が類似しているという点である。
《街路》 と 《コメルス・サン・タンドレ小路》 がバルテュスが住んでいた場所の近所を舞台にした作品であることは、バルテュスのファンにはよく知られていることかもしれない。
《街路》 だけなら、近所の街路をたまたま作品の舞台として描いたというだけで終わったかもしれないが、およそ二十年後に同じ場所を舞台にした 《コメルス・サン・タンドレ小路》 を描いたとなると、それは果たして偶然であったのか、いや、あのT字形の街路には舞台として選ばれる何がしかの理由があるのではと考える人も出てくる。
どうしてその場所が作品の舞台として選ばれたのかという疑問。
峯村敏明は生じたこの疑問に回答を導き出すに当たって、バルテュスの1926年のフィレンツェ滞在に注目し、そこからこのふたつの黙劇の舞台についての考察をおこなっていていく。
美術史などに明るいとはとてもいえない者が読んでも面白い考察だったので、峯村がどう考察したのか、ここでもう一度辿ってみたい。

1926年のフィレンツェ滞在中、バルテュスが研究した画家として名前を挙げられるのはピエロ・デラ・フランチェスカである。
実際、バルテュスがフィレンツェで最も熱心に研究したのはピエロ・デラ・フランチェスカであるのは間違いないようなのだが、ピエロ以外の初期ルネサンスの巨匠たち、例えばマサッチオ (Masaccio)、ジョット・ディ・ボンドーネ (Giotto di Bondone)、シモーネ・マルティーニ (Simone Martini) らの作品にも大きな関心を示し、研究したのだそうだ。
峯村によると、《街路》 という作品を語るうえで最も重要なのはピエロ・デラ・フランチェスカではなく、ピエロよりも半世紀前に活躍した画家マサッチオだという。
ヴァザーリは 『ルネサンス画人伝』 の中で、マサッチオは26歳という若さで夭折したにもかかわらず、その天才は、後進の画家に大きな影響を与えたとして、サンドロ・ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、ラファエロ・サンティなどルネサンス絵画の巨匠たちの名前を三十人近く列挙している。
マサッチオが生前最後に手掛けていたのは、商人フェリーチェ・ブランカッチから依頼を受けて手がけたサンタ・マリア・デル・カルミネ教会 (Basilica di Santa Maria del Carmine、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂) のブランカッチ礼拝堂 (Cappella Brancacci) の壁画で、同じく依頼を受けた画家マゾリーノと協力して1425年頃から制作にあたっていた。
『聖ペテロ伝』を主題とした連作の壁画は十二枚 (あるいは十二枚以上) のパネルで構成されるものになったが、マサッチオは、この壁画の制作中に所要で訪れたローマで亡くなってしまい (この旅に赴いた時点でブランカッチ礼拝堂の壁画の制作を放棄したというのが通説らしい。また、マサッチオの死亡原因の一つとして、マサッチオの才能に嫉妬した画家によって毒殺されたという伝承もあるという)、マゾリーノも途中で制作を放棄してしまったため、その後数十年にわたって放置されたままの状態となったが、1480年代になってフィリッピーノ・リッピ (Filippino Lippi) の筆によってようやく完成をみた。
この連作の壁画でマサッチオが制作したひとつに 《聖ペテロの跛者の治癒とタビタの蘇生 (不具者の治癒/タビタの蘇生)》 という作品パートがあり、この作品の右半分のパートがバルテュスが 《街路》 を制作するうえで重要な役割をはたしているのではないか、というのが峯村敏明の考察で、

マサッチョというなら、何はおいてもまず、ブランカッチの二つの壁画に描かれた 《不具者の治癒/タビタの蘇生》 と 《己れの影で不具者らを癒す聖ペテロ》 の二つの画面を重ね合せてみるべきであろう。衝撃的なまでにバルテュス的 「街頭の黙劇」 の原像があらわれてきはしないだろうか。T字路の空間布置。そのなかで、別々の物語、別々の時間系をすれ違って生きる、奇妙に散漫な群像たち――ただし、この散漫さは前景がマソリーノの筆になることからきた怪我の功名的な効果かもしれない――。そして、聖ペテロ (の影) の夢幻的なあらわれ、その姿勢、その眼差しは、《街路》 における丸顔の男に、まさに影のごとく乗り移ってはいないだろうか。ついでに指摘すれば、フランスではけっしてありふれた光景とはいいがたい 《街路》 のなかの子供を横抱きにした女性の姿。あれも、ブランカッチのもう一つの画面 《聖ペテロの共有財産の分配》 に描かれた最も印象的な母子像を思わせずにはおかない。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

と述べている。
與謝野文子によると、バルテュスの作品には過去の西洋美術や童話から多くの引用や借用があって、バルテュスを研究する学者たちの発掘熱を駆り立てているのだというが、音楽や映画や文学の世界でのそういった発掘作業に心踊らされている者としては、峯村敏明のこの考察は読んでいて非常に楽しい。
峯村は続けてこう書く。

 マサッチョの壁画は、明らかに、一個の絵画的装置の丸ごとを、五百年後の一フランス人青年に贈ったのである。その装置の生かしどころとして、バルテュスが周到に選んだのが、オデオンに近いT字路のある一郭であった。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

つまり、恩寵めいたギフトがマサッチオからバルテュスへ、五百年の時を超えて贈られ、バルテュスにはそれを活かすだけのものがあったのだと。
バルテュスが住んでいたオデオン近くのフェルステンペルグ広場からジャコブ街へ抜ける道が何故作品の舞台として選ばれたのか、という疑問については、これで一応の回答が示されたことになる。
しかし、その場所がすぐに舞台として選ばれたというのではなく、1933年の 《街路》 を制作するに至るまでに、いくつかの試行錯誤がなされた。

バルテュスは 《街路》 を描く前、少なくとも三度違う場所を舞台に 「街頭の黙劇」 を描いているそうで、ポンヌフ、オデオン広場、セーヌ河岸がそれぞれの作品の舞台として選ばれたと峯村はいう。
その情報を基に作品と照らし合わせてみたところ、《ポンヌフ "Le pont neuf"》 (1927)、《オデオンのカフェ "Café de l'Odéon"》 (1928)、《河岸 (ポン・ヌフの近くの堤) "Les Quais (la berge pres du Pont-Neuf)"》(1929) がどうやら 「街頭の黙劇」 を試みた作品らしいということが判明。
もう一点、《リュクサンブール公園 "Jardin du Luxembourg"》 という作品があり、この作品も 「街頭の黙劇」 を試みた作品に入れていいのではないかと思ったが、峯村によると、先の三点とこの作品の間にはフィレンツェ滞在時の初期ルネサンス絵画との遭遇体験以前/以後という大きな切断があり、ボナールやアンリ・ルソーからの影響が依然強く残っている 《リュクサンブール公園》 は、まだ 「黙劇」 という主題が確立するに至っていないという。
とはいえ、先の三点もまたボナールとスーラからの影響の混合から脱していない作品ではあるのだ。
では何が違うのかというと、「そこにあらわれた不器用な人物の姿態、宙吊りの時間の気配、光の効果の恍惚」 といった特徴は、フィレンツェで初期ルネサンス絵画を研究する中、それらのアウラに当てられるかのように絵画の神秘を追体験したことで初めて得ることができたもので、当然体験前に制作された 《リュクサンブール公園》 にはそれがないということになる。
《ポンヌフ》、《オデオンのカフェ》、《河岸 (ポン・ヌフの近くの堤)》 の三点はまだぎこちないながらも 「街頭の黙劇」 という主題を試みた作品で、《リュクサンブール公園》 はその主題が明確ではない作品であるという評価が妥当かどうか、素人目には判断が付かないのだが、それはそれとして、つまり、バルテュスは、フィレンツェ滞在によって 「バルテュスらしさ」 を獲得する機会を得たという訳だ。
こうして、バルテュスの作品を評価する上での判断基準の一つ、フィレンツェ滞在以前/以後が導入される。



ここで改めて 《リュクサンブール公園》 という作品を確認してみたところ、"Balthus" というサインの横に 「28」 という数字が記入されているのが分かる。
この数字の意味するところは何であろうかと考えてみると、色々な答えが考えられなくもないが、やはり、1928年に完成したという意味のサイン、というのが正解に思える。
峯村は、フィレンツェ滞在以前の、初期ルネサンス絵画との遭遇体験を経ていない、まだ 「黙劇」 という主題が確立されていない作品として 《リュクサンブール公園》 を 「街頭の黙劇」 を試みた作品という枠組みから排除したはずである。
何故制作された年にこだわるのかというと、つまり、仮に 《リュクサンブール公園》 が1928年に完成した作品だとすると、フィレンツェでの初期ルネサンス絵画研究の途上で 「不器用な人物の姿態、宙吊りの時間の気配、光の効果の恍惚」 といった特徴を獲得する以前の、「ボナールやアンリ・ルソーの面影が際立っていて、「黙劇」 の主題さえ明確ではない」 作品であるという、峯村の上述の考察に齟齬が生じるのでは?という疑問が湧くからなのだ。
気になって先に進めないため、《リュクサンブール公園》 が制作された年を調べてみたが、1925年頃というものから、1925年から1927年にかけてというもの、そして1928年制作の作品と三つの異なった情報があり、一体どれが正しいのか現状では藪の中という事態になってしまった。
瑣末なとこなのかもしれないが、どうもモヤモヤしてしまう。

また、峯村は 《聖ペテロの跛者の治癒とタビタの蘇生 (不具者の治癒/タビタの蘇生)》 について、この作品はマサッチオとマゾリーノの二人が制作し、前景をマゾリーノが、それ以外はマサッチオ描いたとしているが、現在ではこの作品の制作者はマゾリーノとほぼ確定されており、この作品のマサッチオが描いたとされてきた部分については、岡崎乾二郎の 『ルネサンス 経験の条件』 によると、マゾリーノがマサッチオの作風を模倣して描いたものに間違いないというのだ。
《聖ペテロの跛者の治癒とタビタの蘇生 (不具者の治癒/タビタの蘇生)》 からバルテュスが影響を受け、いくつかの試行を経て 《街路》 で 「バルテュスらしさ」 を獲得した 「街頭の黙劇」 を描いたというのはその通りだろうし、フィレンツェ滞在以前/以後でバルテュスの絵に不可逆的な変化が起きたというのもその通りだろう。
しかし、峯村はマサッチオが描いた《聖ペテロの跛者の治癒とタビタの蘇生 (不具者の治癒/タビタの蘇生)》 と 《己の影を投じて病者を癒す聖ペトロ (己れの影で不具者らを癒す聖ペテロ)》 の二作が特にバルテュスの 「街頭の黙劇」 を思わせる作風に影響を与えたのではないかとして論を進めているため、マサッチオが描いた作品だという前提が崩れた場合、マサッチオを特権的な地位に置いた論考の、「マサッチョの壁画は、明らかに、一個の絵画的装置の丸ごとを、五百年後の一フランス人青年に贈ったのである」 と言わしめるまでの流れが茶番めいたものとなってしまう。
研究が進むにつれ美術史に修正が加えられていくというのはよくあることなのだろうし、そのことによって成り立たなくなってしまう考察が出てくるというのもよくあることなのだろう。
今回の場合、その修正で考察のすべてが瓦解するというものではないにしても、部分的には齟齬が生じているように思われる。
素人にはそれをどう処理したらよいのか解決する方法がないので、やはりここでもモヤモヤしてしまい、その状態のまま数冊の本とネットの検索で補強しながらあれこれ考えてしまうものだから、袋小路でグルグルという状態に陥ってしまった。
埒が明かないので、とりあえずこれらの疑問は棚上げ、ということにしておく。


とにかく、幾つかの疑問はあるにしても、フィレンツェ滞在以前/以後という切断がバルテュスの作品にあることは確かだと思うので、それがバルテュスに何をもたらしたのか、「バルテュスらしさ」 とは一体何を指しているのだろうか、という辺りをみておくことにしたい。

《街路》 は第一作からして決定的な離陸を果たしている。筆触と色彩はまだアンチミスト風の淀みを残しているのに、仕組まれた黙劇の特異な不自然さが特異な空間の布置と結びついて、独自の絵画世界を開きはじめているのである。マサッチョの絵画装置とパリ街路との重ね合せ以外に、この離陸の秘密を司ったものがほかに考えられようか。この重ね合せから浮かび上がってくる視覚の構造こそ、T字型の空間がもつ断ち切られた (緩和された) パースペクティヴであり、またこの奥行きの切断を空間の全方位において徹底させる装置としての、眼差しのすれ違い (と移送) なのである。
 しかり。バルテュスが画家としての生涯の初めにマサッチョから譲り受けた絵画的装置とは、奥への見通しの暗示と同時にそれを遮断するものの現前が画面にもたらす、あの絵画独特の 「表皮」 の両義的な働きであった。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

「バルテュスらしさ」 とは何かという問いについて峯村は 「表皮」 と答えた。
これでなるほどと納得できるほどの素養がないので、「表皮」 とは何であるのか、一応確認しておきたい。
フィリッポ・ブルネレスキからの薫陶を受けて、遠近法を習得したとされるマサッチオやその後継者ピエロ・デラ・フランチェスカ、そして初期ルネサンスの画家たちは視覚表現の空間の合理化や視覚の透明化に取り組んだ。
しかし、例えば、マサッチオはパースペクティヴを遮断する部分を持ち込んだり、ピエロは遠近法を完璧なものにせずに不徹底な部分を残す、あるいは両者に共通する特徴として、描かれた人物たちの無表情さやうつろな視線など、視覚表現の科学化に逆らう不透明感や不合理な要素を科学化を推し進める作品の中に共存させた。
そこに立ち現れる絵画独特の半透明性という両義性の魔術――峯村はそれを 「表皮」 と呼んだのだ。

《街路》 がバルテュスにはじめて魔術的な画面をもたらすことができたのは、だから、偶然ではなかった。彼はそこでマサッチョ (と初期ルネッサンス絵画) 譲りの中断される奥行きと横すべりする眼差しとを梃として、表皮の視覚的力学を手に入れたのである。正面中央を材木をかついで横切る白服の人物の透視妨害効果。画面左端のいかがわしい出来事から私たちの注意を緑帽の女の子へ、さらに真っ赤なボールへと導いてしまう、視線の横すべり効果。これらもまた、主題やモチーフの力を、絵全体の表皮の力がもつ磁場に位置づけようとする工夫のあらわれらほかならない。
- 峯村敏明 「表皮―眼差し―光―表皮」
阿部良雄・與謝野文子 編 『バルテュス』 より

バルテュスが 《街路》 を描くに当たって住んでいたオデオン近くのフェルステンペルグ広場からジャコブ街へ抜ける道を舞台にしたのは何故なのか、という問いにどういう回答が与えられるのか、その過程を軽くまとめるつもりでいたのにご覧の有り様で、長々としたまとめになってしまった。
後半、いくつか疑問点が生じそこで一旦流れが別の方向に流れてしまったため (この別の方向に流れてしまった部分については、その内容をエントリの最後に移動した)、軌道修正したところ、回答という終着点を通り過ぎてしまい、「バルテュスらしさ」 とは何かという別の問いへの回答の一つへと辿り着いていた (辿り着いたといっても自分で考えを巡らしたのではなく、他人の思考の軌跡をただなぞっただけなのだが)。
峯村敏明は続けてバルテュス作品における 「眼差し」 と 「光」 について考察していくことになるのだが、ここではその考察を追うことはせずに、1937年に制作された 《山》 について話を移すことにしよう。


ガエタン・ピコンは 『素晴しき時の震え』 の中で、絵画と時間とイメージと画家の関係、あるいは絵画と時間とイメージとわれわれの関係を様々な画家、様々な作品、様々な時代を行きつ戻りつ語っており、その中で老年期に達した西欧絵画が生み出した作品について次の様に語っている。

極度の老年期に達した西欧絵画が最近作り出したさまざまな作品は、西欧の古典画家たちが年をとってから描いた作品と相通ずるものがある。すなわち、ティチアーノの晩年の諸作品や、レンブラントのあの最後の作品 (ブランスヴック美術館の 『ティトゥス一家』) に見られる、色彩の高まりや氾濫がそれであって、その場合、色彩は、それを閉じ込めている事物を規定することを止めて、まるで水のようにいたるところに拡がり、キャンバスのうえにぶちまけられたパレットそのものと化す。イメージを無視したこのような色彩の高まりこそ、時間の動揺沸騰にほかならないのである。すなわち、現存の感情が絶頂に達すると、この感情は、対象を再現するなどということを排除しようとする。こうした経験は、自分に残された最後の数瞬にしがみつく老人の味わう経験でありうるわけだが、それはまた、おのれがどこにおもむくかを知らぬ生の経験でもありうるのだ。(・・・・・・)
 現在に腰をすえた芸術においては、時間がイメージを消し去る。記憶を扱う芸術においては、一般に、イメージが時間を消し去るのだ。あの老年期の絵においては、イメージは、まるであけっぱなしの扉の前に置いたろうそくの焔のようにゆらめき動くのだが、こういう絵と、われわれがその背後にそれまで過ごされてきた時間の厚みをあますところなく感じるような絵とを区別する必要がある。これらの記憶を描いた絵は、隠遁者の住まう洞穴や、船が難破したあとの砂漠のようなもので、われわれは、結局のところ、そこに、旅の持続を感じるというよりも、旅路の果ての、様々な漂流物や獲物を眺めるのである。イメージは、時間のあとまで生き残るのだ。ブルトンは、その生涯を通じて、ただ 「時間の黄金」 だけを求めてきたと表明している。また、プルーストは、時間の中で、「純粋状態のいくらかの時間」 に出会ったとわれわれに語っているのだ。事実、ここで問題となっているのは、「時間の秩序から解放された寸刻」 なのである。(・・・・・・) イメージは、時間にそってその道を辿るのだが、今やそれは、しずかな水面にしっかりと落ちつくのであって、そこではいかなる返し波もイメージを乱しはしない。アングルのあの肖像画においては、いかなる微風もあの肩掛をふくらませることはないであろうし、いかなる動きも、あの服の皺を乱しはしないだろう。タンギーの描いたあの海岸も、エルンストの描いたあの森も、永久に不変である。(・・・・・・) かくも長いあいだ旅を続けてきたこれらの夢想がたどりつくのは、或るイメージの縁どられた不動性にほかならぬ。
- ガエタン・ピコン 『素晴しき時の震え』 より

『素晴しき時の震え』 では様々な画家の様々な作品が時間との関係で語られていて、そうした中で幾人かの小説家と詩人への言及が度々おこなわれている。
上の引用にも名前のあるプルーストはその中でも言及される頻度が最も高い小説家で、『失われた時を求めて』 を読んだことのある者なら容易に感じ取ることができることなのだが (という言い方は何かいやらしさがあるがお許しを)、『素晴しき時の震え』 の中では 『失われた時を求めて』 が通底音として常に響き続けているからなのだ。
『失われた時を求めて』 の第一篇 「スワン家のほうへ」 において、語り手である 「私」 はマドレーヌを溶かした紅茶を口にした瞬間、あらゆることから孤立した感覚の快楽にうち震え、その未知の体験に驚きつつも何が起こったのかひとしきり考え込んだ後に、それが無意識のうちに過去の出来事を想起したことによるものだと思い至る。
そこから過去と現在を行きつ戻りつしながら物語は進んでいくことになるのだが、最終巻の 「見出された時」 において再びその瞬間について考えを巡らせることになる。

これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらしたある霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚を――フォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々を――鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだんの想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないもの――きらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。
- マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』 より

ピコンが 「プルーストは、時間の中で、『純粋状態のいくらかの時間』 に出会ったとわれわれに語っている」 という時、『失われた時を求めて』 の中で語られているのはこういったことなのだ。
あるいは、「ここで問題となっているのは、『時間の秩序から解放された寸刻』 なのである」 とピコンがいう時、プルーストが語っているのは、

私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらされえない現在を考察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまちその活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、過去と現在のなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂いが、現実と過去との同時のなかで、すなわち現時ではなくて現実的であり、抽象的ではなくて観念的である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまち、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我が――ときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我が――もたらされた天上の糧を受けて、目覚め、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。
- マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』 より

ということであり、その残響も 『素晴しき時の震え』 のいたるところから読み取ることが可能だろう。
こうした五感 (視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚) と記憶と時間を巡るプルースト的思考は先の引用部のみに表れるのではなく、『素晴しき時の震え』 全体を支配しており、そこかしこからその影響を見て取ることができ、要するにそれが通底音の謂いである。
『素晴しき時の震え』 はプルースト的な、あまりにもプルースト的な思考でもって美術について語った本といえるだろう (サルトルと同世代のピコンの感性は、今の時代、さすがに古いと言わざるを得ないが、それでもこの『素晴しき時の震え』 は美しいと丹生谷貴志が昔どこかに書いていた。プルースト的思考から遠く離れているかどうかは分からないが、蓮實重彦は 『物語批判序説』 の 「Ⅰ プルースト または遊戯の規則」 で 『失われた時を求めて』 の第七篇 「見出された時」 を読み解いていき、しかし、そこでは 「『私』 の生涯にさまざまな時期にばらまかれている特権的な瞬間の持つ奇妙な表情についてはいっさい触れられていないし、見出しつつある時の中でそうした瞬間の印象が饗応し合い、空間を超えた絵模様をかたちづくるさまにもいっさい言及され」 ることがなく、「ふだんはけっしてつかむことができないもの――きらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間――を、獲得し、孤立させ、不動化すること」 という一節も引用されているが、ピコンとは全く違った言説の中に置かれることになる。まあ、あれも終わった、これも終わったという言説が溢れていた時代の言説空間――と、いかにも書かれた時代の言説空間を直に知っているかのように書いてしまったが、実際に知っている訳ではなく、印象でしかない――にその時代からはるか以前に書かれた 「見出された時」 で亀裂を入れようと試みているのだから置き方や置く場所が違ってくるのは当たり前なのだが)。

蓮實重彦が簡潔にまとめてみせた 「『私』 の生涯にさまざまな時期にばらまかれている特権的な瞬間の持つ奇妙な表情 (・・・・・・)、見出しつつある時の中でそうした瞬間の印象が饗応し合い、空間を超えた絵模様をかたちづくるさま」 という 『失われた時を求めて』 のエッセンスをピコンは、絵画と時間の問題と人とのかかわりとして 『素晴しき時の震え』 で繊細に語り直してゆき、老年期に達した西欧絵画が生み出した近年の作品に西欧の古典画家たちが老いの中で描いた作品と同質のものを見て取るのだが、そのことに触れた先の引用の続きにおいてバルテュスの 《山》 は次のように語られている。

この絵には、今しがた陽が昇ったばかりでさまざまな人物が巨大な石切場のうえにくっきりと浮かびだしひとりの女が半ば以上身体を浮き出させて伸びをしている部分と、――もう一人の別の女が眠っているまだ夜の部分とがあって、一本のななめの線がこの二つの部分を分割している。だが、この物語は――これが物語のいっさいで、これはけっして終わることがない、なぜなら分割された精神はけっして根源の光に再び結びつくことがないからだ――、変わることのない線の平静さと、もはや生によって触れられることのないイメージのなめらかな表面とにいたりつくのである。
 消し去り得ぬイメージ、あるいはまた、消え去るや否やふたたび形成され再び立ち戻ってくるイメージだ。現存するものの純粋な時間性と、溜まり続けるように思われるものの非時間性との間には、永劫回帰という、時間性の非時間的様態がある。ここにこそ、つまり、不滅のもののいつわりと純粋な現在の空虚とのあいだにこそ、芸術の目指す至高の方向があるのではないだろうか――生からではないにしても少なくともそのせまい個人的な感情から解放された何らかのイメージによって、実在を、実存の物語をさし示す、芸術の神話的方向があるのではないだろうか?
- ガエタン・ピコン 『素晴しき時の震え』 より

ピコンは朝と夜の物語に分割されているというが、バルテュスは一本の斜めの線によって何と何を分割したのだろうか。
例えば、坂崎乙郎は 『画家のまなざし』 に収録されている 「見えぬものと見えるもの」 でこの引用とほぼ同じところを引用し、《山》 の、斜めの線によって分割された二つの部分について次のように述べている。

 印象派のモネが、クルーペの、ついでマネのレアリスムを一歩おしすすめて、うつろいゆく光をルーアンのカテドラルやテムズ河の風景に余映のようにつなぎ止めようとしたとき、光は冷酷に画面を食い尽くし、海綿状の軽石状の、粉っぽい作品が生まれる。
 バルテュスはいわゆる写実の限界を認めていた。いや、限界のない方法論など存在しない。バルテュスの 〈山〉 に当然、限界を発見する人もあるだろう。人物が生硬であるとか、バックの山が舞台の書割みたいであるとか、ただし、これらの非難は、バルテュスがこの絵で唯一目標にした、光線の当たっている部分 (外的時間の世界)、陰の部分 (内的時間の世界) の分裂の前ではもろくも崩れ去るのである。なぜなら、バルテュスは、陰の部分ではいわゆる写実性を、明るい部分では虚構性を意識して用いているのだから。
- 坂崎乙郎 「見えぬものと見えるもの」 (『画家のまなざし』 より)

この 「見えぬものと見えるもの」 というエッセイは 「絵画におけるレアリスムとは何か」 というサブタイトルを持っており、「今日でもなお、対象の精緻な描写と誤解している人が多い」 レアリスムについて、クルーペやワイエスやバルテュスや鴨居玲などの作品に触れながら、その本質について語っているといったものなので、ピコンの 『素晴しき時の震え』 はそういった内容からはいささかかけ離れているのだが、坂崎乙郎はそれを強引に取り込んでレアリスム絵画における時間の問題として捉えなおしている。
陰=内的時間の世界=写実性と陽=外的時間の世界=虚構性とに分割されているという見方が正しいのかどうかは分からないが (そもそも正解があるというものではないので)、これはこれで面白い見方なのではないだろうか。



いつものごとく、バイオグラフィをリニアに辿りつつ作品への言及もしていくというまとめ方をしていたのだけど (やたらと引用が多いのも相変わらず)、普段はあまり考えもなく書き進めてしまうのに、このエントリは立ち止まって考え込むことが多くて疲れてしまった。
ということで、続きはいずれ追加することにして (と書いたものの、本当に追加するの?と自分で自分を疑っている)、尻切れ蜻蛉な内容のここまでをとりあえず公開することに。


ポストした十点のタイトルは以下の通り。


《夢みるテレーズ "Thérèse Rêvant (Thérèse Dreaming)"》 (1938)
《ギターのレッスン (ギターの練習) "La Lecon de Guitare"》 (1934)
《美しい日々 "Les Beaux Jours (The Golden Days)"》 (1944)
《客間 Ⅱ (居間 Ⅱ) "Le salon Ⅱ, 1942 (Drawing Room Ⅱ)"》 (1942)
《部屋 "La Chambre (The Room)"》 (1952)
《猫と鏡 Ⅲ "Balthus - Le Chat au Miroir Ⅲ"》 (1989-94)
《山 (夏) "La Montagne (The Mountain)"》 (1937)
《地中海の猫 "Le Chat de la Méditerranée"》 (1949)
《街路 (通り) "La rue (The Street)"》 (1933)
《コメルス・サン・タンドレ小路 "Le Passage du Commerce Saint-André"》 (1952)


Balthus
Wikipedia - Balthus
Balthus - WikiPaintings.org
BALTHUS pittore opere
Balthus : Reflets de Cristal

Nazif Topçuoğlu - Early Readers -




Nazif Topçuoğlu (ナズィーフ・トプチュオウル)
1953年にトルコのアンカラ (Ankara) で生まれた。
写真家。

ナズィーフ・トプチュオウルの作品から特定の画家や写真家の作品を思い浮かべることがあるのは、当然それらを参照しているからなのだけど、その背後には芸術史や写真史が拡がっており、更に、プルーストやトーマス・マンといった小説家の作品をも参照し、それらをトルコにおける女性の社会的状況に重ね合わせて作品世界を作り上げているのだという。

今回ポストした "Early Readers" は、2001年から2002年にかけて制作されたシリーズ。
このシリーズがバルテュス (Balthus) の作品を参照したものであることは指摘するまでもないが、バルテュスの作品を参照したシリーズはこれが最初ではなく、2000年にイスタンブール、そして2001年にニューヨークで撮影された "Offal with girls" というシリーズにバルテュスの作品を参照した作品が登場し、以後、今現在制作しているシリーズに至るまで、繰り返し参照され続けている。
そうした幾つかのシリーズの中で、女子高の寄宿舎で展開されるバルテュス的な世界といった感じの "Early Readers" は、今のところ、最も上手くバルテュスを参照にし得たシリーズのように思われる。

ナズィーフ・トプチュオウルの作品におけるバルテュス的世界に問題があるとすれば、それは、いささか健康的な世界でありすぎるという点と、バルテュス的少女にしては被写体の年齢層が高いという点だろうか。

ところで、Nazif Topçuoğlu のカタカナ表記をナズィーフ・トプチュオウルとしてみたけど、果たしてこれで合っているのだろうか?

NAZİF TOPÇUOĞLU

John Wilde






John Wilde (ジョン・ワイルド)
1919年12月12日にアメリカ中西部の北部にあるウィスコンシン州 (Wisconsin) 南東に位置するミルウォーキー (Milwaukee) で生まれた。
アメリカの画家。

少年時代に生涯の友となるカール・プリーベ (Karl Priebe) と出会う。
何がきっかけで知りあったのかは不明だが、二人揃って将来画家になることを考えると、絵画への興味が二人を近付けたということなのだろう。
ワイルドは、高校時代、ミルウォーキーを拠点に活動している二人の画家サントス・ジンガル (Santos Zingale) とアルフレッド・セスラー (Alfred Sessler) のスタジオを訪問し、自分も画家としてやっていけるという自信を持ち、この訪問からしばらくして、ポール・クレメンズ (Paul Clemens) に師事、絵を学んだ。

1938年にウィスコンシン大学マディソン校 (University of Wisconsin-Madison) に進学し、学士を取得。
在学中にリージョナリズム (地方主義) とシュルレアリスムを結びつけた作風で知られるマーシャル・グレイシア (Marshall Glasier) の知遇を得た。
グレイシアは1930年代後期にアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク (The Art Students League of New York) で学んだ画家だったが、大恐慌時代ということもあって、ニューヨークでは画家として生計を立てることが難しく、地元マディソンに拠点を移し活動していた。
また、自宅を地元の若いアーティストや学生が集うサロンとして開放し、ワイルドもそこに入り浸る学生の一人となっていたのである。
グレイシアと若いアーティストたちは、当時の不況下、アメリカの画壇で主流のひとつとなっていたリージョナリズムに異を唱え、結束。
グレイシアを中心にマディソン校出身のワイルドやプリーベ、ダドリー・ハップラー (Dudley Huppler)、シルヴィア・ファイン (Sylvia Fein) といった若手のアーティストに、シカゴのガートルード・アバークロンビー (Gertrude Abercrombie) も参加したひとつのグループを形成するに至った。
学生時代のワイルドに影響を与えた人物としては、まず、このグレイシアが挙げられるのだが、他にもう一人、マディソン校で教鞭をとっていた教授の中に影響を与えた人物がいた。
ジェームズ・S・ワトラス (James S. Watrous) という芸術学部の教授は、自然素材でインクやクレヨンやチョークを作製する方法、羽ペンや葦ペンの作り方、銀筆の扱い方を生徒に事細かに教え、そういった教育は、後にワイルドに独自の油彩を生み出させるきっかけとなった。
それだけではなく、ワトラスの美術史や絵画技法についての授業は、当時シュルレアリスムに傾倒していたワイルドに15世紀のフランドル絵画やルネサンス期のイタリア絵画にも目を向けさせることになり、その後の方向性に影響を与えている。

1942年、ワイルドは学生時代から交際を続けていたヘレン・アシュマン (Helen Ashman) と結婚。
また、この年に陸軍に徴兵され、歩兵連隊空軍と戦略諜報局 (OSS) に勤務した。
1946年に除隊すると、ウィスコンシン大学マディソン校に戻って修士を取得し、卒業。
提出したワイルドの論文は、表向きはシュルレアリストのマックス・エルンスト (Max Ernst) 論だったが、後にこの論文が抽象表現主義に対する抗議声明であったことを認めた。

ワイルドは1948年から1982年に退官するまで母校であるウィスコンシン大学マディソン校の教壇に立ち、美術を教えた。
当時大学ではワイルドの前の世代の画家たちが教鞭をとっていたが、ワイルドは先行する世代の教育方針をよしとせず、エッジの効いたテーマを俎上に載せ、且つ、規律性が高く、伝統的な教育をしたという。


ジョン・ワイルドの作品を初めてネットで目にした時、バルテュス (Balthus) から影響を受けた最近の画家だろうなと勝手に決め付けていたが、実際には、バルテュスより9歳年下の画家で、若かりし頃に同時代的な絵画の潮流であったシュルレアリスムやドイツのノイエ・ザッハリヒカイトに端を発した魔術的リアリズム、そして15世紀フランドル絵画やルネサンス期イタリア絵画からの影響を受けて、自身のスタイルを作り上げた人物だった、ということをこのエントリをまとめている段階で知ることになった。
ワイルドの非日常的で幻想的世界を描いた作品とバルテュスの日常を舞台にした作品のどこに共通点を見て取ったのかといえば、スタティックな世界に硬直した少女が描かれているという点しかなく、どうも自分はダイナミックな世界よりもスタティックな世界にに惹かれる傾向があるらしい。
ウジェーヌ・ドラクロワとドミニク・アングルでは、アングルが好きという、スジの悪いタイプなのだ、自分は。


Wikipedia
Art in Context Center
John Wilde on artnet
Tory Folliard Gallery
ARTISTS :: MODERN ART / CONTEMPORARY ART / MMoCA COLLECTS

Sarah Moon











Sarah Moon (サラ・ムーン)
1941年にフランス中南部オーヴェルニュ地域圏 (Auvergne) 北部にあるアリエ県 (Allier) の温泉保養地ヴィシー (Vichy) において、ユダヤ人の家庭にマリエル・アダンギュ (Marielle Hadengue) として生まれた。
パリを拠点に活動しているフォトグラファ。

1940年6月のドイツ軍の侵攻でフランスが占領下に置かれたことで、ユダヤ人であった一家は国外への逃亡を余儀なくされ、イギリスへと逃れた (サラ・ムーンの生まれをイギリスにしている記事を検索中に幾度か見かけたが、生後間もなくイギリスに渡ったのであって、生まれはフランスである)。
パブリック・スクールに通い、絵の勉強をする少女時代を過ごす。
1960年、マリエル・アダンギュは19歳でモデルとなった。
その辺りの事情について、日本で開催された 「サラ・ムーン展」 の図録に掲載されたインタビューでは、

モデルの仕事から始まったんです. それさえ偶然でした. 誰かに写真のモデルをやってみないかと言われ, その頃他にすることもなかったので引き受けたんです. モデルから写真家になったスーザン・アーチャーに町で会ったのは19歳の時でした.
- サラ・ムーン
(「サラ・ムーン展」 図録より)

と答えている。
Wikipedia などの記事からスーザン・アーチャー (Susan Archer) にスカウトされてモデル業界へ入ったのだと理解していた。
しかし、この発言だとそれ以前にモデルに誘われていて、そんな時に偶然が重なるようにアーチャーに声を掛けられたということになる。
これはどういうことなのだろう、どちらがより正確なことなのだろうと瑣末なことに拘泥し始めて検索に没頭したものの、いつまでたっても 「より正確なこと」 なるものを見つけ出すことができない。
検索作業から開放されず、足踏み状態になってしまったので、この件はここで終了。

スカウトされた当時マリエル・アダンギュ (つまり、後のサラ・ムーン) は画家と結婚しており、モデルの仕事について夫に相談してみたところ、いいんじゃないのと反応が軽いものだったこともあって、モデルを職業にするという気概もないままキャリアを開始――そんなマリエル・アダンギュを最初に撮影したのは、もちろん、街中で声を掛けてきたアーチャーだった。
思いがけなく始めたモデルではあったが、マリエル・アダンギュは業界で成功。
一流ファッション誌の常連モデルとして活動するようになってから、初めて、写真を写真として意識することになったとサラ・ムーンは後に語っている。
そして、恒常的な被写体になったことでマリエル・アダンギュは写真に興味を持つ。
スタジオ撮影での待ち時間や楽屋で手持ち無沙汰だったことも手伝って、カメラを手に、待ち時間などで暇を持て余しているモデルたちを撮り始めた。
すると、中にはPR用の写真が欲しいというモデルもいて、頼まれて撮影することもあったという。
モデルとして仕事の選択もできるようになり、空いた時間に写真を撮って過ごす、それなりに充実した日々を送っていたある日、マリエル・アダンギュの撮影した写真を見たファッション誌の編集者が 「OK、5ページあげるから好きなようにやってみなさい」 なんてことを言ったのだそうだ。
おそらく、編集者のこの気まぐれな依頼がファッションフォトグラファ転向への後押しとなったのだろう。
マリエル・アダンギュは1966年までロンドンやパリでモデルとして活動したが、その後、1970年から本格的にファッションフォトグラファの道を歩んでいく (ビル・レイ (Bill Ray) という 『LIFE』 誌で活躍したフォトグラファが1969年に駆け出しのフォトグラファとして経験を積んでいる頃のマリエル・アダンギュを撮影している)。

マリエル・アダンギュはファッションフォトグラファとして活動を始めてしばらくした頃に、名前をサラ・ムーンに改めた。

以上、フランスで生まれたサラ・ムーンが、イギリスで成長し、モデルとしてファッションの世界に飛び込み、その後ファッション・フォトグラファとして新たにスタートをきるまでの軌跡をまとめてみた。

モデルから転向したファッション・フォトグラファといえば、以前エントリを立てたエレン・フォン・アンワース (Ellen von Unwerth) もそのひとりだった。
モデルから転向して写真家になったのは誰なのだろうか、アンワースの時代にはすでによくある事例だったのだろうかといった疑問が湧かなかったのは、多分、アンワースが写真家だったボーイフレンドの影響でカメラを手にし、いじっているうちに自然な流れとして、モデルからファッション・フォトグラファへの職業転向が起きたのだと受け止めていたからなのだろう。
しかし、アンワースがモデルになった頃、サラ・ムーンはすでにマリエル・アダンギュから名前を改めてファッションフォトグラファとして活躍していたのだ。
とすると、アンワースがサラ・ムーンという先行する事例を見知っていた可能性があり、アンワースが自然な意識の変化でジョブチェンジしたと考えるのは素直すぎるのではないかという気がしてくるが、これ以上は考えても先に進むことはないので、サラ・ムーンの場合についても考えてみたい。
いや、モデルから転向したファッション・フォトグラファであったスーザン・アーチャーにスカウトされてモデルになったサラ・ムーンは後にアーチャーと同じ道を歩むことになるのだが、その時サラ・ムーンがロールモデルとしたのが他でもないこのアーチャーだったのではないかという疑問が湧いて、アンワースの場合ももしかしたらと思ったのだから、順番が逆になっているのだけど。
結果どうだったのかというと、スーザン・アーチャーについて調べてみても、どういった人物だったのかほとんど情報がなく、サラ・ムーンと何がしかの交友が続いたということがあったという情報もなかったことから、推測を裏付けることは出来なかった。
ネット上にあらゆる事に関する詳細な情報があるわけなどない、という当たり前のことを改めて思い知らされ、スカウト云々のことも含め、徒労感だけが残る結果となった。

蛇足部が思いのほか長くなってしまったが、そもそも、サラ・ムーンとして活動する以前の経歴だけまとめても意味がないだろ、と思わなくもない。
が、モデルを経験して写真家に転向したことが、サラ・ムーンのスタイルの成立に大きく関わりがあると考える人もいる。

 というのも, 彼女は19歳の時, 自らモデルとなり, 『エル』 や 『マリ・クレール』 といった雑誌のために様々なポーズを取り続けたという経歴を持っているのである.
 つまりサラは, 60年代を通じてパリでファッション・モデルの仕事をおこない, そうした男性写真家たちの痛いほどの眼差しを浴び続けていたのだ.
 いわばモデルたちのいる場の空気を変質させてしまう暴力的な男の視線に対する反抗が彼女をしてカメラを手に取らせた理由といえるのかもしれない.
 サラは自分の考えや表現を主張したり, 自分の意図や欲望で被写体をつくりかえたりするのではなく, 一瞬のお伽噺や寓話を現出させるために写真を使い, 男の眼が決してとらえられない, 淡く, 美しい時間を, 撮りおさえようとした.
- 伊藤俊治 「月の光のなかの少女たち――サラ・ムーンの世界」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

こうして、決定的な一瞬を捉えようとする意思に支えられたカッチリと構築されたモードのイメージに、サラ・ムーンは新たなイメージ――淡くて儚い甘美なイメージというか、猫の目のようにクルクル変わる捉えどころのないイメージというか、陳腐な言い回しになってしまったが、とにかくそんなイメージ――を持ち込み、1970年代から1980年代にかけて新たな潮流を生み出すことになったと、写真評論家の伊藤俊治は 「サラ・ムーン展」 図録に寄稿したエッセイの中で述べていたりもするのだから、まったく無意味な経歴のまとめではなかったのだということにしておく。

この図録には、こういった要因があってその結果サラ・ムーンの写真スタイルが成立したという伊藤俊治の論の進め方とはいささか趣を異にしたエッセイを写真家の奈良原一高が寄稿していて、サラ・ムーンの揺蕩う大気のような、何処か捉えどころのないイメージがモード写真の世界に登場した頃のことを回想しつつサラ・ムーンについて語っているのだけど、例えば、写真家とモデルの関係については、次のように述べている。

 画家とモデル, 見るものと見られるものとの関係が絵画の, そして撮るものと撮られるものとの関係が写真の世界を構成する眼には見えない糸ならば, 曽つて自分自身がモデルであり, いま写真家であるサラ・ムーンはその両者から発信する二本の視覚の糸をいつも身内に宿しているはずである. 僕たちが彼女の写真の中の女たちに彼女自身を見たような気持ちになってしまうのは, 恐らく撮影の瞬間に彼女がモデルの中身とすり変わってしまう能力を身につけているからに他ならない. そのとき, ファインダーの中でモデルたちは彼女に憑依されてしまうのだ. 女たちの顔がさびしげなのはそのせいなのかもしれない.
- 奈良原一高 「パリの化身,サラ・ムーン」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

先に引用した伊藤俊治のエッセイには堅苦しく論じるというところはないにしてもやはり評論家の書いたものなので分析的であったが、それに対し、奈良原一高はエッセイの中でサラ・ムーンを詩人に喩えているのだけど、その喩えと同じ意味において、奈良原一高のこのエッセイも詩的にサラ・ムーンを捉えているといえるだろう。
奈良原一高は、写真史や技術論を踏まえながら、しかし論じるというような大上段に構えることなく、モード写真の世界にそれまで存在しなかったといってもいいフラジャイルな世界観を生み出したサラ・ムーンのことをエレガントに語っている (どちらかというと伊藤俊治寄りのエントリばかり書き散らかしている自分には、こういった資質が全く欠けている)。
エッセイは、ニューヨークのダコタ・ハウスに住んでいた友人のファッション・フォトグラファ、ヒロのアパートに転がり込んでいた頃のことがまるで数日前の出来事を語るように語り始められ、ある日の夕食後、二人の会話は珍しく写真の話になったこと、その時話題となったのは、新人写真家としてニューヨークで活躍するアーバスとパリで活躍するサラ・ムーンのことだったと回想を綴っていき、奈良原一高は、対極的な位置にいるといっていいこの二人の写真家が話題となったことについて運命的な懐かしさを覚えつつ、二人の違いを、ストレートフォトグラフィやソーシャル・ドキュメンタリに連なるダイアン・アーバスの写真とピクトリアリスム (と奈良原一高は明示していない) の匂いに包まれたサラ・ムーンの写真、徹底してドメスティックであったニューヨークを拠点にしていたダイアン・アーバスの写真と仕事で訪れたあらゆる場所をパリにしてしまうサラ・ムーンの写真と対比していくと (この辺りの対比の件は幾分分析的)、生起する出来事をストロボの硬質な光で捉えようとしたダイアン・アーバスとそのストロボ光によってオールド・ファッションとなってしまったタングステン光でゆったりとした時間のリズムを捉えるサラ・ムーンと比較した辺りから、本格的にサラ・ムーンの世界へ分け入っていく。

(・・・・・・) そして, 彼女の写真の中の光, それは正しくパリの光そのものである. いちどパリに住んだことのある人なら, あの重くよどんだパリの空気の中で発光し続ける燈心草のように柔らかいパリの光の肌ざわりを彼女の作品の中に発見するだろう. 彼女の写真にふりそそぐ光は木もれ陽であったり, 木立ちの蔭に寄りそうマヌカンたちにそよぐ風のように, 決して輝かしい太陽が登場人物の顔をダイレクトに照らすことはない. 室内のくらがりの中では何処か思いがけない方向から屈折した灯りが女たちの姿態を美しく浮かび上がらせる. そのあぶり出されたような眼射しは逃げてゆく時間を問いたげに追っているかのようだ. 無為という最高のぜいたくを身にまとって彼女たちは写真の夢の中に住んでいる.
- 奈良原一高 「パリの化身,サラ・ムーン」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

(・・・・・・) サラ・ムーンが一見時代遅れに見えるタングステン光を時の彼方から取り出して自分の写真を出発させたのは彼女の心のなかで発光する光を思い通りに描くためのデリケイトな闇の空間が必要だったためではないだろうか. 眼はストロボ光を実感をもって正確に追うことは出来ない. 経験と推理力をはたらかせて, 訳文を読むようにポラロイドフィルムによるテストの結果を信じてシャッターを切るしかない. それよりは自分の感性を眼に託して, 光の所在を味わいながら, 見える限りの世界を霊的に取り扱う方が詩人の生き方にふさわしいのだろう. 技術の進歩や歴史の展開は時として皮肉な側面をみせる. 感光材料の急速な進歩や電磁化は超高感度の世界をこれからも生み出してゆくことだろう. やがては大光量のストロボの光はそれほどには必要がなくなり, そのときサラ・ムーンの技法は逆に写真の未来的な相貌につながってゆくことだろう.
- 奈良原一高 「パリの化身,サラ・ムーン」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

 サラ・ムーンの写真には“パリ”という言葉のもつ既視感 (デジャビュー) がいつも漂っている. 世界中の皆が望んでいるパリ, こうあって欲しいと想われるパリの光と時間が, その空虚な空間の中には塗り込められている. 僕たちの青春のイメージを育てたジャン・コクトーの 「オルフェ」 や 「美女と野獣」 の映像, 「悪魔が夜来る」 の忘れがたい瞬間, そのような記憶のオリの中に沈んでいるパリさえもサラ・ムーンの世界の中では生きているのである. 誰も彼女の写真に失望することはない. もしかすると, それはサラ・ムーン個人 (ひとり) が作っているのではなく, さまざまな人間の欲望が彼女を使って作り上げているパリのイメージなのかもしれない. (・・・・・・) サラ・ムーンはパリの化身なのだ.

 「いま, 聞こえているサラ・ムーンのようなピアノは誰の曲なの」 「エリック・サティよ」
- 奈良原一高 「パリの化身,サラ・ムーン」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

まるで数日前の出来事を語るかのような過去の回想から始まったエッセイは、それ自体がどこかセピア色がかっていて、奈良原一高と同じ時代の記憶を共有している世代では全くないにもかかわらず、郷愁を感じずにはいられない。

奈良原一高のエッセイといえば、『ユリイカ』 1993年10月号 【特集 ダイアン・アーバス 聖なるフリークス】 に寄せたエッセイの、アーバスのワークショップに参加した頃のことやアーバスの自殺、その後アーバスが信頼し依存していたアートディレクターのマーヴィン・イスラエルとの出会い、日本でアーバースの最初の個展が開催されるまでを回想する内容が強く印象に残っている。
この回想もやはり、まるで数日前のことのように当時を回想する内容であるのだけど、そうでありながら、甘い郷愁やレトリカルな比喩を抑えた、アーバスへの哀惜に満ちた回想となっていて、ただただ素晴らしい。
そういったエッセイがまだ他にも多くあると思われるので、一冊にまとめて欲しいところなのだけど、そういう話が寄せられたとしても、恐らく、それを本人が固辞しているために実現は難しいのだろう。


「サラ・ムーン展」 図録に写真家のフランク・ホーヴァット (Frank Horvat) のサラ・ムーンへのインタヴューが収録されている。
このインタヴューが部分訳であることを知ったのは、後にホーヴァットの 『写真の真実 (Entre vues)』 という写真家へのインタヴュー集を購入した時だった。
『写真の真実』 は、軽くジャブを打ち合うような対話を意図して仕掛けるホーヴァットの態度もあって、適度に緊張感のある内容となっているのだけど、サラ・ムーンへのインタヴューもやはりホーヴァットは議論になる話題を意図して持ち掛けていているので、共感する者同士の温い対話には収まっていない (図録に収録された部分訳は、議論をしているところを意図的に避けて訳されたものだった)。

ホーヴァット: (・・・・・・) 君は、注文は写真家の創造性を排除するものではない、とたびたび力説している。僕は君に反論する気は全然ないけれど、でも本当の問題はそこにあるのかな、と疑問に思っている。注文よりも、演出を問題にすべきではないだろうか?映画を監督するように写真を監督することができるだろうか?このことは写真の本質と両立すると思うかい?

サラ・ムーン: 私はいつも、写真というものを演出する一つの可能性、映像で物語を語る一つの可能性として感じていたわ。私は最小限の情報ほんの手がかりしかない映像、場所が特定されない映像で、しかも私に話しかけるような、それまでに起こったこと、またこれから起こることを示唆するような映像を求めているの。こうした撮影方を認めない人たちがいるだろうということはわかっています。でもなぜ一種類の写真しかないのかしら?私は、一着の服を着た女性についての情報以上の、物語的で喚起的な映像を、私の選ぶ要素を使って創作したいと思っているの。
- フランク・ホーヴァット 『写真の真実』より

引用したのは、その後、鋭いジャブの応酬となる端緒となった部分。
ホーヴァットの意図としては、演出で世界を構築してしまうと、写真から突然のアクシデントが入り込む余地というものが奪われてしまうのではないか、ということを問うた質問だったらしいのだが、ホーヴァットの問いかけからそれを読み取るのは難しく、実際、サラ・ムーンの答えはそれとはズレていた。
ホーヴァットは自分の質問の意図を説明し、そこからその問題を巡る議論へと発展していくのだけど、とりあえず、ここでは、サラ・ムーンが写真における演出についてどう考えているのかが分かるやり取りとして、この部分を引用しておく。

このインタヴューには、幾つか具体的な作品への言及もある。
例えば、今回チョイスした作品だと、写真集 『赤頭巾 (Le petit chaperon rouge)』 に収録されている作品。
ここでもホーヴァットが意図的に挑発的なことを言い、議論を吹掛けている。

ホーヴァット: (・・・・・・) 我々の人気投票で全会一致を見たのは 「街路の少女」 の写真だ。この少女は光線のなかでくるっと廻っているように思える。我々はこの写真を一冊の写真集の中に見つけた。ところが、この写真が収録されている 『赤ずきん』 では、僕は特にこの写真からは感銘を受けなかった。これはたぶんこの小さな写真集を僕があまり好きではないせいかもしれない・・・・・・

サラ・ムーン: この写真集の何が気に入らないの?

ホーヴァット: まさにシークエンス (続き画面) になっていることだ。この写真集を見ると、僕はこれを演出しているサラを考えざるを得ない。そこにはもう不思議 (ミステリー) がないんだよ。でもこの写真一枚だけを切り離して見ると、「この少女はだれだろう? サラはどういうわけでこの少女に巡り会ったのか? 一体何が起こったのか?」 という疑問が湧くんだ。

サラ・ムーン: ある雑誌の六、七ページを埋めるために作った一連のお話の中から、私が個展のためにこの一枚だけを取り上げたのは確かよ。まるで私はこの写真一枚だけのために仕事をしたみたい。あなたが邪魔に思うのは組写真 (シリーズ)、あるテーマについての変化なのね。

ホーヴァット: そうしたシリーズは君の料理法を暴露するからだ。

サラ・ムーン: それと、それぞれの映像 (イメージ) が初めと終わりを推測させなければならないのに、私は既に初めと終わりが出来上がっている物語を語るから、ね。 繰り返しがひとつの鍵 (キー) を明らかにするし、いったん鍵がわかったら、人々はもう同じ目付きでは見なくなる。それには賛成だわ。 「何事も起きない写真を撮りたい」 と私はよく考えるの。私の夢はこうした浄化に到達することかもしれない。でも、取り除くためには、最初に何かがなければならない。何事も起きないためには、まず何かが起きなければならないのよ。
- フランク・ホーヴァット 『写真の真実』より

童話 『赤ずきん』 をモチーフにしたシリーズの一枚として知られる写真の演出方法についての懐疑をホーヴァットが述べ、議論に発展していくかに思われたのだけど、いつの間にか、サラ・ムーンのどこか哲学的な夢、写真家としての理想的境地へと話が拡がっていった。
このインタヴューには、他の作品への言及した部分やカラー写真について語っている部分もあり、そういった部分についても面白く読んだが、その辺りについては次の機会に持ち越し、ということにしたい。

ホーヴァットが撮影する側から 『赤頭巾』 シリーズへの不満をサラ・ムーンにぶつけていたのに比べると、伊藤俊治が 「月の光のなかの少女たち――サラ・ムーンの世界」 で同シリーズに付いて述べていることはかなり趣が違っている。

(・・・・・・) ボローニャ図書展で 「子供の部グラフィック賞」 を受賞した 『赤頭巾』 には, そんなサラのナイーヴな感性によって人間の形態のなかで最も傷つきやすい存在である “少女” の危うさが見事にとらえられている.
 『赤頭巾』 では, 写真の画面そのものが, わずかな物音にもびっくりしそうなくらい敏感になっていて, 主人公の少女は, どの場面でも男の眼でオブジェ化された一義的なロールにはおさまらず, これから何かが起こりそうな期待と不安でゆらめき, ふるえている.
 というより, サラ・ムーンの写真のなかではどの女もみな, この少女の時代へ戻ってゆくのかもしれない.
 いや, 少女の時代に誰しもが夢見た, はかなく, やるせなく, 甘ずっぱく, せつない想像の世界へ, 再び戻れるのかもしれない.
 サラ・ムーンの写真集を一枚一枚めくっていくと, 彼女が追求しようとしているものは, すべてがこわれやすく, 消え去ってしまいそうなあえかな瞬間ばかりであることに気がつく.
 そうした移ろいやすく, 傷つきやすいものであるがゆえに, 撮りおさえられた感情や記憶の写しはよりいっそう鮮やかに光り輝くのだろう.
 「私が写真を通して一番表現したいと思うのは, いつも, 時間とあまりに短くてはかないもの, そう, つかの間の関係なのです」.
 彼女自身が言うように、サラ・ムーンには繊細な美しさの持つゆらぎを, もうひとつのフェミニズムの流れにのって記録し続けてきた.
 彼女の写真にあふれているのは美しさだけではない.
 美しさそのものではなく, 美しさが消えてゆく瞬間なのだ.
- 伊藤俊治 「月の光のなかの少女たち――サラ・ムーンの世界」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

ホーヴァットは、『赤頭巾』 シリーズについて、演出の行き届いた完全にコントロールされた写真なのだけど、そのために写真に本来あるはずの 「不慮の出来事を容れるマージンがなくなるような限界」 を突破してしまって、そこには不思議がなく、想像力が喚起されず、演出家の意図ばかりに眼がいく、と思ったという。
確かに予め用意された物語によって統御された世界には、偶然性や事件性というものが入り込む余地は全て塗りつぶされてしまっているようにも思える。
だけど、伊藤俊治の言う 「写真の画面そのものが, わずかな物音にもびっくりしそうなくらい敏感になっていて」、震えるような、密かな囁きのような、触れると粉々に砕けてしまうような瞬間が見る者に伝わっていることもあるのではないだろうか。
そんなことを言うと、それはいささかロマンティシズムが過ぎるのでは?とつっこまれること受けあいだが、そんな時は、まあ、それでいいじゃないかと開き直ることにしたい。


ポストしたのは、

"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"-" (-)
"July" (1988)
"Coincidences 2001" series (2001)
"Coincidences 2001" series (2001)
"She runs under the bridge along the railway" from "Circus" series (2002)


の10点。
最初の4点が写真集 『赤ずきん (Le petit chaperon rouge)』 からのチョイス。
学生の頃、古本屋で手に取ったサラ・ムーン展の図録で最も印象に残ったのが、エントリの最初にポストした 『赤ずきん』 シリーズの作品で、サラ・ムーンに 『赤ずきん』 という写真集があることを図録を見る前に知っていたのか、その図録で知ったのかは憶えていないが、とにかく、図録で見て以降、ある時期まで、サラ・ムーンと聞いて最初に思い浮かべるのはこの作品だった。
しかし、当時古本屋で手に取っただけだったその図録をずっと後になって購入してみたところ、図録のなかでフィーチャー作品の中に記憶に残っている 『赤ずきん』 の作品はなく、展示作品としてまとめられたページの中に小さく載せられているだけだったので、ひどくがっかりしたのだった。
今思うと、図録で見る以前に別の本か雑誌でその作品を見たことがあって、図録でその作品が 『赤ずきん』 というシリーズの一枚だと知ったのかもしれないが、図録を古本屋で購入した時に注意深く記憶の整理をしなかったため、実際のところがどうだったのか、忘却の彼方になってしまっている。
まあ、こういった誰得のあやふやな思い出話もそのうち忘れてしまうのだろうし、いつか読み返して、そういえばそんなことがあったかもと思い出すことがあるかもしれないことなので、備忘録的に書き残しておく。

Wikipédia - Sarah Moon
archivesarahmoon
Sarah Moon - Michael Hoppen Gallery

Post-mortem photography











まず最初に "Post-mortem photography" って何?というところから。
直訳すると 「死後写真」 となり、他にも "memorial portraiture"、"memento mori portraits"、"mourning portraits" と呼ばれることがある。
そう、このエントリに貼られた写真で眠るように横たわっている少女たちは、皆、死者なのだ。
写真には横たわった少女の傍に立つ子供が写っているものもあるが、それらは死せる少女の家族ということになる。

女優たちの殺人現場を撮影した伊島薫の写真集 『死体のある20の風景』 は女優が死体を演じた、つまり模擬死体となって、様々な場所で撮影されるという、面白くも美しいコンセプトの写真集だったが、ここにポストした写真に写った少女たちは、その 『死体のある20の風景』 の女優たちのように死体を演じている訳ではないし、もちろん、レトロ趣味で撮影された現在の写真などでもない。
百年から百数十年ほど前に、ヨーロッパを中心にアメリカや中南米の一部の国で数多く撮影された写真なのである。
寝ている我が子を撮影したかに見える写真が、実は、亡くなってしまった我が子を撮影したものであるということに驚く方がいるかもしれない。
そう、これらの写真は、死者を撮影しているというのに、どう見たって念入りに演出された写真なのだ。
ここでは、こういった写真が何故誕生したのか、その文化的・社会的・時代的背景をサクッとまとめてみることにしよう。


「死後写真」 がいつ誕生したのか、その正確な日付は定かではないが、フランス人画家ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール (Louis Jacques Mandé Daguerre) の手による、ダゲレオタイプ (daguerréotype) と呼ばれることになる写真技術が発明されてまもなくの頃には、すでに誕生していたという。
誕生した日付が分からないように、誰が始めたものなのかは不明で、しかし、そういった来歴の不確かさとは無関係に、ヨーロッパでは大流行し、19世紀末期にピークを向かえると、その流行は北米や南米に拡がり、20世紀になると徐々に姿を消していったのである。

と、この辺りの流れはもう少し後で触れるとして、まずは文化的背景の歴史から。

"Post-mortem photography" の "Post-mortem" は、やや特殊な状況において英語圏で日常で使用される言葉であり、元々はラテン語で、ラテン語の箴言 "Ede, bibe, lude, post mortem nulla voluptas (食って、飲んで、遊べ、死後に快楽などないのだから)" からも分かる通り、「死後」 という意味なのだが、それが英語に転じて、「検死(解剖)」、あるいは 「(失敗の)事後検討」、「(失敗の)反省会」 という名詞、「死後の」、「検死の」、あるいは 「事後の」 という形容詞として使用されている。

では、"Post-mortem photography" の別の呼び方 "memento mori portraits" の "memento mori" は何を意味はというと――。
"memento mori" をカタカナ表記すると 「メメント・モリ」 であり、この言葉を日常生活の中で――小説や漫画やアニメなどに接する機会が多い人ほど――耳にする (あるいは目にする) 機会があるのではなだろうか。
「メメント・モリ」 とは、ラテン語の 「いつの日か己にも死が訪れることを忘れるな」 を意味する箴言や、2世紀にカルタゴで活動した神学者テルトゥリアヌス (Tertullianus) が 『護教論 (Apologeticus)』 に記した "Respice post te! Hominem te esse memento! Memento mori! (振り返るべし!汝人であることを忘るるなかれ!死の訪れを忘るるなかれ!)" という一節に登場する言葉で、直訳すると 「死を想え (死を忘れるな)」 となる。
「メメント・モリ」 という言葉が日本で広まったのは、藤原新也がインドやチベットを放浪した時に撮影した写真に生と死を巡る言葉が添えた著書 『メメント・モリ』 を1983年に出版し、それが大きな話題になってからのことだろう。
あるいは、ヨハン・ホイジンガ (Johan Huizinga) の 『中世の秋 (Herfsttij der Middeleeuwen)』 の11章目に当たる 「Ⅺ 死のイメージ」 の冒頭部、

 十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想が重くのしかぶさり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。 「死を想え (メメント・モリ)」 の叫びが、生のあらゆる局面に、とぎれることなくひびきわたっていた。ドニ・ル・シャルトルーが、その著 『貴族生活指導の書』 のなかで、貴族たちに説きすすめていうには、「ベッドに横になるとき、想うがよい、いまこうしてベッドに横たわっているように、じきにこのからだは、他人の手で、墓のなかに横たえられることになるのだと」
 もちろん、キリスト教会は、すでにはやくから、たえず死を想えと、熱心に教えてはいた。けれども、初期中世の教会関係の論述は、すでにこの世を捨てた人びとの手にしかわたらなかったのである。托鉢修道会の成立以後、ようやく民衆説教が盛んになり、それにつれて、死を想えとの勧めの声もしだいに高まり、ついには、あたりを圧する大合唱にまでふくれあがって、おもおもしいフーガのうねりのうちに、とどろきわたるようになったのである。
 中世末期になると、説教師の言葉に加え、この思想の新しい表現形態が登場した。すなわち、木版画であって、これがしだいに社会各層に普及したのである。だがこのふたつの大衆向け表現手段、説教と版画とは、人びとの心に直接はたらきかける、単純素朴きわまりないひとつのイメージにおいてのみ、鋭くはげしく、この死の思想を表現しえたのである。
- ヨハン・ホイジンガ 『中世の秋』

を読んで初めて 「死を想え (メメント・モリ)」 という言葉に触れたという方も結構いるのかもしれない。
Wikipedia によると、古代においては 「メメント・モリ」 は 「(食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから) 今を楽しめ」 という趣旨だったものが、キリスト教圏で別の――あるいは 「逆の」 と言っても間違いではない――意味に変化し、上に引用した 『中世の秋』 の文脈で使用されるようになったのだという。

「メメント・モリ」 という思想、その死のイメージの果たした役割は、無常の観念を表現することで、中世末期の人々は、視野狭窄に陥ったかのごとく、その無常観からしか死を考えることが出来なかったようなのだ、とホイジンガは 『中世の秋』 のなかで述べている。
その 「メメント・モリ」 を伝播する新しい表現形態として木版画が挙げられているが、それがすなわち、「死の舞踏 (La Danse Macabre)」 と呼ばれる木版画で、そこには中世の人々の恐怖心を刺激した死のイメージが表現されている。
ペストの流行や長引く百年戦争の影響などを背景とした、死への恐怖と生への執着に取り憑かれた民衆の突発的自然発生的の半狂乱の舞踏――それは一種の集団ヒステリーでフランスを中心に発生し、「死の舞踏」 は、最初、その模様を木版画で表現したものだった。
その 「死の舞踏」 をキリスト教側が取り込んで、「メメント・モリ」 の想念に合致させるように目論み、時間の経過とともに――「死の舞踏」 の発生からそれをモチーフとした表現の誕生までにおおよそ百年かかっており、そこに付加した宗教的意味合いが浸透するのにもやはり同じくらいの時間がかかっているのだが――その目論見通りに 「メメント・モリ」 という思想を伝播する表現形態へと変質していったのである。

「メメント・モリ」 の表現形態は木版画以外の表現形態をとることもあった。
例えば墓石。
中世の世俗を否定した人々、つまりキリスト教会の修道士などは現世蔑視を説く論説に塵芥や蛆虫といったおぞましい表現を織り交ぜて肉体腐敗の恐怖を人々の心に植え付けていったが、十五世紀になると富裕階級の間で、その恐怖を視覚的に表現した墓石――硬直した身体が腐敗して剥き出しになった腹部に蛆虫が湧いているという陰惨といってもよい表現で装飾された――が流行し、十六世紀の後半まで続いた。

こういった 「メメント・モリ」 のテーマと隣接/重複しているものとして、静物画に寓意を持ち込んだ 「ヴァニタス (vanitas)」 がある。
ラテン語で 「空虚」 や 「虚しさ」 を意味し、人生や権力や富の虚しさや美に透けて見える虚栄や偽りを頭蓋骨や朽ちた果物やシャボン玉や地球儀や蝋燭や宝石や硬貨、あるいは鏡などに喩えて表現させた。

と、「メメント・モリ」 の歴史を軽くまとめてみたが、"memento mori portraits" と呼ばれることもある 「死後写真 (ポスト=モーテム・フォトグラフィ)」 もそういった流れのなかにあるといっていい。
違っているのは、絵画や彫刻と違って写真が複製できるメディアであるという点 (ダゲレオタイプの時点ではまだ複製の出来ないメディアだったのだが) と、中世においては死への恐怖と生への執着に取り憑かれた人々の無常観を表現するものであった 「メメント・モリ」 が、"memento mori portraits" においては、死者を忘却することを恐れ、最後の姿を記憶するための記録となっている点だろう。

続いて、「死後写真」 が誕生するに至った時代背景と社会背景について簡単にまとめてみたい。
肖像画は元々王侯貴族のものであり、富や名声や権力を誇示するために描かれていた。
産業革命を背景に中産階級が増大すると肖像画のニーズも増大していき、19世紀頃にもなると肖像画の世俗化がかなり進行しており、ダゲレオタイプの登場は肖像画が欲しいという中産階級のニーズに旨く合致し、瞬く間に市場が形成され、肖像画をその特権的な地位から引き摺り下ろしたのである。
画家を雇ってその姿を描いてもらうのにかかる費用とダゲレオタイプでその姿を撮影してもらうのにかかる費用では、とちらがより安価であったのか?ということは調べがつかなかったが、油彩で描かなければならない肖像画は対象者を拘束する時間が長く、完成に至るまでにも時間を要し、肖像画が欲しいというニーズの増大に対応するには自ずと限界があったところに、撮影するだけなら数分、セッティング等の時間を含めても対象者を拘束するのが30分から1時間くらいで済むダゲレオタイプの登場は、そのニーズの増大に応えるに足るものであったといえ、それが肖像写真の需要の拡大の大きな要因だったと推測することができる。
写真の需要が増大に合わせ、撮影技術も複製の出来ないメディアだったダゲレオタイプから複製可能なカロタイプへと技術革新が進んだ。
需要の増大、技術の革新とくれば、多様化という面も当然出てくるのだが、その一つが肖像写真から分岐した (と断言してよいのだろうか?) 「死後写真」 だったのである。
ビクトリア朝期のイギリスでは乳児死亡率が非常に高かったことは知られているが、その死亡率の高さが 「死後写真」 流行の一因であり、これは第二帝政期から第三共和制期への移り変わりの時代だったフランスでも事情はそう変わらないと思われ、ということは、それ以外のヨーロッパでも同様のことがいえるのではないだろうか。
こうして、亡くなってしまった愛児の姿を、あるいはその思い出を記録として残しておきたいという思い、つまり記憶を記録として所有したいという中産階級の欲望は、ダゲレオタイプを活用することで 「死後写真」 を生み出し、ヨーロッパで流行するに至った。

ダゲレオタイプは発明された当時、露光時間に数分から数十分かかっていたが、それも間もなく数秒から数十秒に短縮された。
とはいえ、撮影時の露光時間中、撮影対象は身じろぎひとつしてはならなかったということに変わりはなく、被写体はその間緊張を強いられるものだったためか、当時の肖像写真からはピリピリと緊張したものが感じられるが、動かぬ死者を撮影する 「死後写真」 の場合、静止時間を気にしなくてもよく、文字通り安らかな眠りについたかのように穏やかな姿で写真に納まっている。
実際、「死後写真」 は、初期、被写体の顔のクローズアップかその全身像のみを撮影するだけで、対象が収められた棺が写ることは稀だったそうで、眠る子を撮影したかのように装われたというが、そのうち、ベッドで寝ている姿やソファで休息している姿や乳母車に乗っている姿など、日常生活の一コマをさりげなく撮影したという演出がされるようになったり、棺に納められた姿を撮影するにしてもその回りを花や植物などで美しく飾り立てたり、家族や親戚一同との集合写真にしたりとバリエーションが豊富になっていった。
「死後写真」 の流行はヨーロッパに止まらず、アメリカやメキシコ、そしてアルゼンチンにも飛び火。
ヨーロッパでの流行のピークは19世紀末期だが、アメリカ、メキシコ、アルゼンチンでは19世紀末期から20世紀を跨ぐかたちで流行した後、徐々に下火となっていった。

ヨーロッパにおける文化的背景についてもう一点。
19世紀後期、小説や詩の中で女性の病弱で衰弱した姿やその衰弱の果てにある死が様々な形で語られ、その、女性の儚げな姿や死を崇高で美しいものとして賛美した。
これは何も文学作品のなかだけでの流行ではなく、絵画にも痩せ細った青白い女性の姿や死して横たわる女性の姿が多く描かれたのである。
そういった女性像を作り出した作家や詩人、そして画家はほとんどが男性で、彼らの手による一見女性を賛美したかのように見えなくもない作品を裏返すと、そこにはミソジニー (女性嫌悪) の闇が深く淀んでいるのだ、とブラム・ダイクストラ (Bram Dijkstra) は当時の資料を渉猟して 『倒錯の偶像―世紀末幻想としての女性悪 (Idols of Perversity: Fantasies of Feminine Evil in Fin-de-siècle Culture)』 の第Ⅱ章で分析してみせた。
当時の子供の無垢の称揚にも同様の構造がある。
「死後写真」 の流行は、肖像画の需要、写真の登場、「メメント・モリ」 思想だけでなく、当時のそういった文化面での流行が背景としてあったとみるべきだろう。


今回、このエントリにポストしたイメージは、"Post-mortem photography" コレクターとして世界的に有名なポール・フレッカー (Paul Frecker) のサイトで公開しているものの中からチョイスした。
以下に、そのポール・フレッカーの経歴をまとめておく。

Paul Frecker (ポール・フレッカー)
英国のヴィクトリア朝時代の写真のコレクター兼ディーラー。

ポール・フレッカーは1980年代に 『FACE』 や 『i-D』 といった雑誌で、1990年代にはミュージックヴィデオやCMの世界にまで活動の範囲を広げて活動していたファッション・スタイリストだった。
フレッカーは2001年にアンティークショップで名刺サイズの写真をまとめたアルバムに出合い、蒐集熱に取り付かれ、スタイリストを止めてしまったそうで、その後ヴィクトリア朝時代の写真のコレクター兼ディーラーとなり、2003年に現在のウェブサイトを開設し、自身のコレクションの一部を公開、販売も行っている。

フレッカーのサイトではライブラリーで3つのコレクション・シリーズが公開されているのだが、このブログ的に最も関心を寄せるのは "post-mortem" というシリーズになるだろう。


Wikipedia - Post-mortem photography
Wikipedia - メメント・モリ
Paul Frecker - Nineteenth Century Photography
PAUL FRECKER « SPHERES :: a world behind curtains

Mary Ellen Mark - INDIAN CIRCUS -











Mary Ellen Mark (マリー・エレン・マーク)
1940年3月20日、ペンシルベニア州 (Pennsylvania) 南東部にあるフィラデルフィア (Philadelphia) 郊外で生まれた。
フォトジャーナリズム、ポートレイト、広告写真の分野で活動しているアメリカのフォトグラファ。

9歳の時にコダック社製のボックスカメラ、ブラウニーで写真を撮り始めた。
チェルトナム高校 (Cheltenham High School) に通い、チアリーダーのキャプテンとして活躍し、絵画とドローイングの技術を向上に努めた。
高校卒業後はペンシルベニア大学 (University of Pennsylvania) に進学し、1962年に絵画と美術史でBFAを取得した後、同大学のアネンバーグコミュニケーション大学院 (Annenberg School for Communication) に進んで、1964年、フォトジャーナリズムで修士を取得。
卒業後、フルブライト奨学金を得ると、1965年にトルコに渡り、そこを拠点におよそ2年を費やしてイングランド、ドイツ、ギリシャ、イタリア、そしてスペインといった国々を写真撮影して廻った。

1967年にアメリカに戻ると、ニューヨークを拠点に定め、ニューヨーク42番街で繰り広げられる様々な出来事――ベトナム反戦デモ、ウーマンリブ運動、服装倒錯者文化、バーレスク劇場の芸人達たち、結婚ブローカー――やタイムズスクエア、セントラルパークにカメラを向けた。
そこから明らかになるのは、マリー・エレン・マークの社会の主流から外れたものへの志向だろう。
アンドリュー・ロング (Andrew Long) のエッセイによると、マリー・エレン・マークは自身の志向性について、1987年に 「私はギリギリの処にいる人々に興味があります。 社会で最高の機会を得られなかった人々に親近感が湧くのです」、そして 「私が何よりもしたいのは、彼らの存在を認めることです」 と説明したとある。
マリー・エレン・マークがニューヨークを拠点に置きながらも、その華やかな面ではなく、マージナルな存在に眼を向けた頃、そこにはすでにダイアン・アーバス (Diane Arbus) がいて、ギリギリの処にいる人々――つまり、倒錯者や世間から爪弾きにされている人間、極端に走る人々など――を精力的に撮り続けていた時期でもあった。
また1967年は、奇しくも、3月に写真界の新しい世代の写真家ばかりを集めた写真展 「ニュー・ドキメンツ (New Documents)」 展がニューヨーク近代美術館 (Museum of Modern Art, MoMA) で開催された年でもあり、アーバスはあの有名な双子の写真を始め小人や倒錯者やヌーディストなどのポートレイトを30点出品し、その主題から話題をさらっていた (といっても一般からの反応は、写真の一面しか見ようとしないネガティヴなものばかりだったという)。
だから、マリー・エレン・マークはアーバスの作品をどこかで見たり、噂を聞いたり、撮影している現場に遭遇したりしたことがあったかもしれない。
そういった可能性があるからといってマリー・エレン・マークはダイアン・アーバスのフォロワーであると言い切るのは飛躍があるのだが、どうしても志向性や方向性に類似性をみてしまい、安易にその影響下で活動を開始した写真家のように考えてしまう。
と、これ以上は脇道にそれそうなので、この影響云々ということについては、後でまた考えることにしたい。

マリー・エレン・マークは主流から外れたギリギリの処にいる人々に眼を向ける一方で、ハリウッドの映画業界に入り込み、映画のスチール写真の撮影という職を手に入れた。
アーサー・ペン (Arthur Penn) の 『アリスのレストラン (Alice's Restaurant)』、マイク・ニコルズ (Mike Nichols) の 『キャッチ22  (Catch-22)』 と 『愛の狩人 (Carnal Knowledge)』、フランシス・フォード・コッポラ (Francis Ford Coppola) の 『地獄の黙示録 (Apocalypse Now)』 といった映画のスチール写真を撮影し、それ以外にも、1969年に 『LOOK』 誌の依頼でローマに赴きフェデリコ・フェリーニ (Federico Fellini) が 『サテリコン (Satyricon)』 を撮影しているところを取材撮影したりもしている。
『LOOK』 誌とはこの仕事が縁で定期的に仕事をするようになり、同じ頃、『LIFE』 誌からも仕事の以来が舞い込むようになった。

マリー・エレン・マークはプラハの春を逃れてアメリカで映画を撮影していたミロス・フォアマン (Miloš Forman) が1971年に撮った 『パパ/ずれてるゥ! (Taking Off)』 (何だこの邦題は?) という映画に参加したが、1973年、今度は雑誌の依頼でミロス・フォアマンの新作映画の取材をすることになった。
この新作は、ケン・キージー (Kenneth Kesey) の小説 『カッコーの巣の上で (One Flew Over the Cuckoo's Nest)』 を映画化したもので、ジャック・ニコルソン (Jack Nicholson) を主演に撮影はすでに始まっていたが、マリー・エレン・マークが取材に訪れてみると、資金難でスチール写真を撮影するスタッフを雇う余裕も無いという有様だったそうで、マリー・エレン・マークはプロデューサーに報酬のことは考えなくていいから自分を撮影スタッフとして雇うようにと進言して撮影に参加。
以前からメンタルヘルスと精神疾患に興味を持ち、精神病院を撮影したいと思っていたマリー・エレン・マークは、映画撮影の関係で訪れたオレゴン州立病院 (Oregon State Hospital) で病院の責任者と会い、その紹介で危機管理のため女性精神障害者隔離病棟 "Ward 81" に閉じ込められて療養する女性患者と接する機会を得、"Ward 81" を撮影する決意をした。

マリー・エレン・マークは病院の責任者と何度も交渉し、自分と作家のカレン・フォルジャー・ジェーコブス (Karen Folger Jacobs) の二人が病棟に長期滞在して患者たちにインタヴューしたり撮影したりする許可を取り付け、1976年2月から36日間、"Ward 81" 内に滞在して取材を続けた。
"Ward 81" はマリー・エレン・マークにとって今後を決定付ける分岐点となった。
マリー・エレン・マークは、いつ、どこで、誰が、何を、どうしたのかという啓蒙的でルポルタージュ然とした写真を撮ることには興味が無く、女性患者たちに接し、できるだけ理解し、そして自分が感じたままを、長々とした説明的なキャプションも必要ないくらい感情が力強い視覚表現となってカタチに表れるような写真を撮りたかったのだという。

マリー・エレン・マークは自身の長期プロジェクトと生活を成り立たせるため、自分の作品と技術を対価に交換出来る市場を開拓する必要があり、1977年にマグナムフォト社 (Magnum Photos) の一員となった。

マリー・エレン・マークの場合、テーマを見つけるのに時間がかかる方ではないそうなのだが、取り掛かるまでに非常に時間を有することもあれば、取材し終えたルポルタージュが発表されるまでに何年もの時間を必要とすることもあり、撮影対象とのコミュニケーション、あるいは出版社との交渉には大変な労力が必要となる。
例えば、『フォークランド・ロード (Falkland Road)』 というシリーズ。
インドのムンバイにあるフォークランド通りは売春街として知られている。
マリー・エレン・マークがその通りを訪れ、客引きをしている娼婦たちを目にしたのは、1968年のこと。
しかしその時のマリー・エレン・マークにはフォークランド通りをテーマにするに当たって必要なこと二つ――取材をする上での金銭的なバックアップと通りに並ぶ娼婦たちとの接触方法――が欠けており、そのことを棚上げして何度か取材を試みたものの、カメラを向けるたびに罵詈雑言を向けられ、ゴミを投げつけられた。
フォークランド通りを本格的に取材することになるのは、最初に取材の試みた1968年から10年経ってからのことで、1978年10月にようやく取材を開始することが出来たのである。
といっても、一朝一夕に進むものではなく、最初の頃は以前と同じように、罵詈雑言を浴び、ゴミを投げつけられる日々が続いたという。
マリー・エレン・マークは当時を回想して 「まるで冷たい水へと飛び込むかのように、毎日、気を引き締めなければなりませんでした」 と述べている。
そういった日々を続けていくうちに娼婦の中にマリー・エレン・マークに好奇心を示すものが現れ――中には狂っていると思っている者もいたそうなのだが――、二、三人の娼婦と徐々に打ち解けた関係を築き、そこからゆっくりと、急がず友人関係を広げていった。
取材は1979年1月まで続き、カラーで撮影された写真は幾つかの雑誌に発表され、1981年に写真集として出版された。

インドではもう一つ、貧困、栄養失調、結核、ホームレス、ハンセン病、失明、と常に死が付きまうカルカッタのスラム街の中で、奉仕活動を続けていたマザー・テレサを取材したシリーズ "Teresa of the Slums: A Saintly Nun Embraces India’s Poor" が1980年7月号に掲載され、1981年の二度目の取材で撮影された写真と共に 『カルカッタのマザー・テレサの慈善活動 (Mother Teresa's Mission of Charity in Calcutta)』 としてまとめられ、1985年に出版された。

インドで取材した 『フォークランド・ロード』 と 『カルカッタのマザー・テレサの慈善活動』 は、マリー・エレン・マークのマグナム時代を代表するルポルタージュとなった。

マリー・エレン・マークはおおよそ5年間、マグナムの一員として写真を撮り続けた後、マーク・ゴドフリー (Mark Godfrey)、チャールズ・ハーバット (Charles Harbutt)、アビゲイル・ヘイマン (Abigail Heyman)、ジョアン・リフティン (Joan Liftin) と共に独立し、写真の二次販売を管理する Archive Pictures を共同で設立。
後に設立したメンバーのグループが解散しても、この Archive Pictures は1988年まで運営が続いた。
また、映画業界で円滑に仕事を続けていくためにはエージェントが必要であることも理解し、映画の宣伝と広告の手配をしているビサージュ (Visages) のマリッサ・マスランスキー (Marysa Maslansky) のもとで働いた。
1988年、マリー・エレン・マークは自身の写真を管理する the Mary Ellen Mark Library をテリー・バーベロ (Teri Barbero) と設立し、バーベロにその責任をまかせると、その他、仕事をしていく上で必要となる環境を整えていった。


マリー・エレン・マークがインドのサーカス団に興味を持ったのは、最初にインドを訪れた1968年のことで、そこで見た二つの光景――ピンクのチュチュを着た大きなカバがリングの周りを歩く練習をしている場面とチンパンジーが人間の赤ちゃんを乗せた乳母車を押している場面――は強い印象を残したという。
サーカスをテーマに撮影しようと決意するも、取材費の調達が困難でなかなか実現には至らず、マリー・エレン・マークはインドを訪れる度に様々なサーカスを沢山見物し、写真を撮った。
写真を撮ったといっても、他の取材で訪れたインドで、空いた時間を見つけて見物しているサーカスを撮影するのだから、"Ward 81" の取材の時のように、対象を理解し、自分が感じたままの感情が力強く表現されている写真を撮るという訳にはいかない。
本格的に腰を据えて撮影に臨みたい、そう思っていたマリー・エレン・マークに転機が訪れたのは1989年のことで、サーカス団に興味を持った1968年から20年以上の歳月が経過していた。
ジョージ・イーストマン・ハウス (George Eastman House) の国際写真博物館 (International Museum of Photography) とイーストマン・コダック社 (Eastman Kodak) の写真事業部 (Professional Photography Division) から助成金を得られ、マリー・エレン・マークはサーカスの撮影のためインドへ向かうことが出来たのである。
この辺りの経緯についてはマリー・エレン・マーク自身が写真集 『インディアン・サーカス (INDIAN CIRCUS)』 の中で語っているので、そちらを引用しておこう。

 私はインドに恋をした。そして同時にインディアン・サーカスにも・・・・・・。それは1969年、初めてインドを訪れた年のことだった。私は友人とボンベイに滞在し、チャーチ・ゲートのサーカスを観に行った。たちまち私はサーカスの無垢な美しさの虜となった。ピンクのチュチュを着た大きなカバが、口を大きくあけてリングの周りを歩く練習をしていたのを、いまでもはっきりと憶えている。最後に彼 (彼女?) はチュチュに似合いの綿菓子をご褒美にたっぷり貰っていた。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

 その後20年間に、私は写真撮影のために、何度もインドを訪れた。数々の雑誌の特集を担当したし、ボンベイの娼婦を写した 『フォークランド・ロード』 という写真集も出版した。ボンベイやデリーのストリート・パフォーマーを集中的に撮影したり、インド関係では二冊目の写真集 『カルカッタのマザー・テレサの慈善活動』 という本も作った。そうした折々、私はいつも近くにサーカスが来ていないかと探して、見つけると必ず撮影に出かけた。70年代の初めボンベイで、私はジェミニ・サーカスを撮影し、そこで子供のチンパンジーのラジャと調教師に出会った。彼らが互いにあまりに似ていたこと、そしてラジャの創意に富んだ動きに私は感動した。ほかの調教師の2歳になる娘を乗せた乳母車の周りをラジャが自転車に乗って回る出し物もあった。チンパンジーは凶暴な動物である。赤ん坊を近づけられるほど信頼しているからには、彼は特別な存在だったのだろう。
 いつかインドに戻り、まとまった時間をかけてサーカスを撮影しなければならないと思っていた。1989年、ついにこの夢を実行に移すことができたのは、マリアン・フルトンをはじめとするジョージ・イーストマン・ハウスの人たちの励ましと助力、そしてイーストマン・コダック社や国立芸術基金からの助成金のおかげである。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

こういった経緯があり、マリー・エレン・マークは1989年1月から1990年1月までの13ヶ月の内6ヶ月を飛行機や電車やタクシー駆使したインドでのサーカスの取材に費やし、大都市から地方の小さな村まで廻って18のサーカス団を撮影している。
インド国内をあちこち移動するのに二人のアシスタントを雇った。
一人はアメリカ人で、もう一人はインド人。
当時大小様々な規模のサーカス団の内、トップクラスの規模を誇るものは25団体前後あったそうなのだが、2週間から2ヶ月で巡業地を移動する。
サーカス団間の競争が激しく、動物が盗難にあったり、演目や演技が盗まれたりするのを防ぐため、サーカス団は次の巡業地についての情報を公開するのを極端に嫌がり、情報の収集に苦労したという。

急速な変化を遂げる現代インドでは、サーカスは古臭く、それどころか気恥ずかしいものとされ、サーカス団の廃業が続く。多くのサーカス団のオーナーは、私たちのこのプロジェクトが彼らの運命を変える一助となるのではないかと期待して撮影を許可してくれたが、なかには否定的に描かれるのではないかと心配する人もいた。ダヤニタはさまざまなオーナーたちそれぞれに連絡をとり、面会しなければならなかった。彼女は、インディアン・サーカスを記録して、それにふさわしい芸術としての形を与えることが私たちにとって重要であることを彼らに確信させ、信頼を得なければならなかった。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

この様に、おおよその場合、インド人アシスタント、ダヤニン・シンがそれらに粘り強く対処したお陰で、マリー・エレン・マークは限られた時間の中でインド中を移動しているサーカス団の内、18団体も取材できた。
しかし、それでも、どうしても情報の収集も交渉もできないサーカス団というものもあり、あるサーカス団の場合は調査と追跡の果て、次のような顛末を迎えたこともあった。

誇大妄想的なオーナーもいて、ついに居場所さえ教えてくれなかったこともある。ベンガル・サーカスという名のサーカスで、一種独特な雰囲気を持つサーカスだった。どうしても見つけたかったのだが、ベナレスから数マイル先でやっとつかまえたと思ったら、そこには大きな上物が載っていたにちがいない大きな穴が残っているだけだった。一日遅かったのである。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

マリー・エレン・マークが初めて訪れたインドで見たサーカス団で、チンパンジーが人間の赤ちゃんを乗せた乳母車を押している場面に遭遇し、その光景が脳裏に焼き付いたということについては先に述べたが、1989年3月、マリー・エレン・マークはその時のチンパンジーに再会している。
インド南部のケーララ州で公演していたジェミニ・サーカスの撮影に訪れると、そこには、70年代の初めにボンベイで見かけたチンパンジーがまだおり、しかも、そのラジャ (というのがそのチンパンジーの名前) はサーカス団の看板スターとなっていたという。
ラジャという名前はヒンズー語で王を意味するそうなのだが、その名が指し示すようにサーカス団では王様のように扱われており、塵一つない大きな檻には扇風機が設置され、新鮮な果物がいつも並べられていた。

彼は私のことをわかっていたと思いたい。彼は私に檻のほうに来いと手を叩いた。行かないと私に手を振り、そして泣いた。時どき彼は私の唇に優しくキスした。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

というエピソードが 『インディアン・サーカス』 に寄せたエッセイの中で語られているが、大島渚の映画 『マックス、モン・アムール (Max mon amour)』 を髣髴させ、とても美しい。
野生のチンパンジーの平均寿命は15歳から20歳くらいで、飼育下では57歳まで生きたチンパンジーの記録が残ってはいるが、平均寿命は45歳くらいだそうだ。
マリー・エレン・マークが初めてラジャに会った時、ラジャが何歳だったかは不明だが、1989年には若く見積もって25歳から30歳くらいになっていたのではないかと思われ、人間でいうと40代。
中年を迎えたチンパンジーのラジャは胃潰瘍を患っており、注射を打つのに檻を押さえたりするのに九人がかりの大仕事で、落ち着かないラジャに有効だったのは、「象を連れてくるぞ」 とラジャが唯一恐れていた存在を持ち出して脅すことだったという。
マリー・エレン・マークとラジャは接する時間こそ短かったとはいえ、深い絆で結ばれていたらしく、

私がジェミニ・サーカスを去る日、ラジャは舞台で失態を演じ、調教師は私が彼の檻に行くのを嫌がった。彼は私が帰ってしまうことをなんとなく気づいていたのだろう。手を叩いても私が近づかないのを知ると癇癪をおこした。ついに見かねた調教師がサヨナラを言うのを許してくれた。私が手を擦るとラジャは私の眼を見据え、キスをした。彼は私が去った数日後に死んだ。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

という結末を向かえたのだそうだ。
まるで、チンパンジーとの別れから遠く離れた地でチンパンジーの死を知った主人公がそれをモノローグで語る映画のラストみたい、という感想はあまりに陳腐だが、所詮その程度の想像力しか持ち合わせていないので、お許し頂きたい。

1992年、マリー・エレン・マークは夫のマーティン・ベルがナショナル・ジオグラフィックのテレビ探検シリーズのために監督するインドの子供曲芸団をテーマにした映画 『脅威のプラスティック・レディ (The Amazing Plastic Lady)』 のプロデューサーとしてインディアン・サーカスを再訪。
映画は、インドでは 「プラスティック・レディ」 として知られていた10歳の曲芸師の少女ピンキィとその師プラタープ・シンの関係に軸に撮影され、サーカスの魅力を伝える内容というだけではなく、インド文化に根強く残っている堅固な師弟関係の感動的な記録となった。
マリー・エレン・マークは映画の撮影と平行してインタヴューや写真撮影をし、インディアン・サーカスの取材内容をより豊かなものにした。
例えば、10歳の曲芸師の少女ピンキィはインタヴュに

「サーカスにやってきてからのことしか覚えていないの。その前のことは忘れてしまった。私は大人になってもサーカスにいるわ。サーカスの生活は素敵だもの。ここに来ていなかったらひどかったと思う。ここでは誰も私をぶたないもの。大きくなったらサーカスのスーパー・スターになるの。そして旅をするの。世界中、世界中よ」
「私は結婚はしない。子供は欲しくない。結婚は怖いの。夫は私をぶつわ。頭を持って、引っ張るわ。彼は酔っぱらうでしょう。私を虐待するわ」
「私のお母さんはサーカスからずっと離れた村に住んでいるの。帰りたいと思ったことはない。お父さんは私のことをとても可愛がってくれた。お父さんが死んだとき、店を売らなきゃならなかった。店があったら、こんなに貧しくならなかったはずよ。私たちの家の狭さといったら、あなたには想像もできないわ。お父さんが死んだとき、お母さんのサリーをかけたの。」
「一度、村のお母さんに会いにいったことがある。お母さんは映画館の前の空き地に布を広げて、曲芸をしてって言ったの。私はやったけど、いい気はしなかった。人が私のお金を投げるやり方が嫌だった。もしお母さんが来て私を連れていこうとしても、私は行かない。歳をとっても自分のことは自分でするわ」
- ピンキィ
(マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より)

と答えている。
10歳とはとても思えない、自立心を持った受け答えに驚く。

マリー・エレン・マークのオフィシャルサイトに、写真集 『25年 (25 Years)』 にマリアンヌ・フルトン (Marianne Fulton) が寄稿したエッセイの全文があり、そこでマリー・エレン・マークの25年に亘る写真家としてのキャリアが振り返られていて、このエントリを書くに当たって大いに参照させてもらった。
そのエッセイによると、マリー・エレン・マークはインド国内においてもニュースとして注目されることのないインディアン・サーカスにこだわる理由について次のように言ったという。

「私は特定の普遍概念を――みんなが感じるものを表す普遍概念を探そうとしています。ですから、エキゾチックな写真それ自体には興味はありません。私は生々しく無防備な国を再び見るためにインドに行くのです。それが大好きなのです。そこでは物事があらわというか・・・・・・私自身の文化や他の文化に関係があるものとして会いたい。エキゾチックな魔法の儀式とみなしたくはありません・・・・・・私は文化的境界を横断する事柄を探しているのです」
- マリー・エレン・マーク

これをもっと直裁な言い方をすると、『インディアン・サーカス』 のエッセイの冒頭 「私はインドに恋をした。そして同時にインディアン・サーカスにも・・・・・・」 になるのだろう。
更にインディアン・サーカスを観覧した日々、取材した日々への郷愁、あるいはその現状や未来に思いを馳せ、

 私にとってインディアン・サーカスは、過ぎ去ってしまった日々の純粋さの名残であった。それは西欧文明にはもはや見出すことのできない無垢なものである。彼らは現代社会の欲求を方向転換させようと、よりシンプルな昔ながらの生活に執着する。しかし1880年にヨーロッパから輸入されたサーカスは、今日、急速に廃れつつある。60年代半ばにはトップ・クラスの大サーカス団が52あった。いま、その半分も生きながらえてはいない。アメリカのサーカスのように、インディアン・サーカスも瀕死の時を向かえているのか。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

 インディアン・サーカスの撮影は、私の長いキャリアのなかでも、最も美しく、喜びに満ちた特別な時間を与えてくれた仕事のひとつである。それは魔術的な白昼夢の記録でもあり、同時に非常に現実的な生の記憶でもある。皮肉やユーモアに富み、ときに悲しく美しく醜く、愛情深く同時に残酷で、けれども常に人間的である。インディアン・サーカスは、私を視覚的に魅了するすべての物事のメタファーなのである。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

とエッセイに記している。

作家のジョン・アーヴィング (John Irving) は1990年の冬にジュナガドで公演していたザ・グレート・ロイヤル・サーカスに1週間の密着取材をした (その結果書かれたのが1994年に発表された長編小説『サーカスの息子 (A Son of the Circus)』)。
この取材がマリー・エレン・マークの紹介によるものだったのかどうかは不明だが、アーヴィングはそこでマリー・エレン・マークがサーカス団の撮影をしている現場に居合わせたのだそうだ。
その時のことが 『インディアン・サーカス』 の序文に書かれており、例えば、45ページの檻の中にいるライオンと調教師を撮影した写真には、威嚇するがごとく口を大きく開いたライオンと顔をしかめ仰け反る調教師の対峙した姿がそこには写っているのだが、アーヴィングはその現場を檻の外から気楽に眺めていたのに対し、マリー・エレン・マークは檻の中でその機嫌の良くないライオンの撮影に臨んでいたのだという。
マリー・エレン・マークの撮影現場は万事がこの調子だったそうで、アーヴィングは序文の中で次のように語っている。

 インディアン・サーカスは古きよき昔の生活を反映している。マリー・エレンは一途な率直さとやむにやまれぬ愛情で、そうした生活を写し出す。曲芸師とはいったい何なのか――彼らは子供で、大半は少女だ。もしサーカスに入っていなかったら、多くは物乞いをするか (それとも餓死するか)、あるいは身体を売っていただろう。彼女たちにとってサーカスの生活とは何だろう――毎日、日に三回の舞台がある。深夜にベッドに就き、6時には起きる。しかしこの本には彼女たちが実際に舞台で演じる写真は一点しか含まれていない。彼女たちの生の姿は舞台では見えないからである。かわりにマリー・エレンの写真は誇りっぽい通路やテントの中での日常生活を捉える。それは訓練と休み、そしてさらなる訓練の生活である。
- ジョン・アーヴィング
(マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より)

サーカス団と一週間寝食を共にしてその生活を観察することが疲れることだったのだが、それと同じように、マリー・エレン・マークの仕事振りを見ることは疲れることだったとアーヴィングは言う。
だから、『インディアン・サーカス』 という写真集は、マリー・エレン・マークのインディアン・サーカスへのひたむきな愛情があればこそ写し得た写真ばかりなのだろう。

マリー・エレン・マークのバイオグラフィはこの後もまだ続くことになるが、それは次回、エントリを立てる機会があればそのときに続きをまとめることにしたい。


さて、私は先にマリー・エレン・マークはダイアン・アーバスの影響下で活動を開始した写真家と捉えてしまうと述べた。
これは私に限ったことではなく、マリー・エレン・マークの作品からダイアン・アーバスを思い浮かべる人は案外多いのではないだろうか。
実際、検索してみるとこの二人を並べて感想を述べたり論じたりしている人が結構いることが分かる。
しかし、このエントリを書くに当たって参考にしたエッセイでマリアンヌ・フルトンは、マリー・エレン・マークがアーバスの作品を好きだと言っているのは事実だし、類似点がないとも言えないのだが、対象へのアプローチの方法が各々違っており、両者を比較することは誤っていると主張。
それを踏まえ、スティーヴ・ハーパー (Steve Harper) が改めてアーバスとの比較の件についてマリー・エレン・マークに見解を求めたところ、次のように答えている。

私としては、アーバスとの比較は止めるべき、としたいところです。
私はダイアン・アーバスの写真が好きです。
アーバスは偉大な写真家であったと思いますが、比較されることは嫌いです。
偉大な写真家からひらめき=刺激 (inspire) は受けたくはありますが、影響=感化 (influence) されたくはありません。
アーバスの写真が好きだからこそ、自分自身の写真をアーバスの写真らしく見させないようにしています。
私の写真は彼女のようなものの見方をしていませんし。
唯一、類似点があるとしたら、共に周縁の人々に魅了されたという点といえるかもしれませんが。
アーバスの写真はとても直接的ですが、アーバス自身は一歩退いて観察者然としているのに対し、私の写真はとても感情的で恐らくそれほど視覚的に直接的ではない、というように、私とアーバスの写真は視覚的に非常に異なっていると思います。
繰り返しますが、アーバスは偉大な写真家だったと思っています。
人々が私たちを比較する場合、双方が女性である、ただそれだけの理由で比較をするのです。
社会の周縁の置かれる人々に引き寄せられる多くの写真家がいました。
ユージーン・リチャードは周縁の人々を撮影しましたが、しかし、ダイアン・アーバスと比較されることは決してありません。
興味深いことです。
- マリー・エレン・マーク

この後リチャード・アヴェドン (Richard Avedon) が引き合いに出され、アーバスとアヴェドンはそれぞれ独立した表現をする写真家と考えられ、比較されることがないのは性別によるもので、女性は女性と比較されて然るべしというのは性差別主義的なのではないかとマリー・エレン・マークは主張し、比較という話題は終わりになる。

パトリシア・ボズワース (Patricia Bosworth) が書いたダイアン・アーバスの伝記 『炎のごとく―写真家ダイアン・アーバス (Diane Arbus: A BIOGRAPHY)』――この伝記はアーバス関係者からは誤った情報による間違った記述が多いと評判が悪いらしいが、個人的には面白いので、文藝春秋から出ている自伝や伝記の中では、ローレン・バコールの自伝 『私一人』 共々是非文庫化して欲しい一冊――を読むと、アーバスがどういった写真家から学び、どういった写真家に共感し、どういった写真家が同世代だったのかが語られているので、主だったところをまとめてみたい。

アーバスが自分のカメラを手に入れた後、最初に写真のことを学んだのは、ドキュメンタリ写真成立黎明期に活躍した写真家として知られるベレニス・アボット (Berenice Abbott) だったが、弟子入りしたとかではなく、講習を受けて撮り方を学ぶというごく初歩的なものだったらしい。

アーバスは1957年頃に自由な時間が持てる時期があり、写真技術の先駆者として有名なニセフォール・ニエプス (Nicéphore Niépce) にまで立ち返って、そこからジュリア・マーガレット・カメロン (Julia Margaret Cameron)、マシュー・ブラディ (Mathew Brady) の写真に親しむようになり、ルイス・ハイン (Lewis Hine) について知るためにわざわざかつてハインが教鞭を執ったエシカル・カルチャー・スクール (Ethical Culture Fieldston School) で学び、ポール・ストランド (Paul Strand) がピクトリアリスムからキュビスムを通過した抽象主義的な写真へ変化していった様を論じた文献を読んだりと、写真を学びなおす作業を行っていたという。

絵画を模倣することから出発した写真の歴史は、その後そこから離れることになるのだが、離れてもなお品行方正なスタイルに固執し続けていたところに、ルイス・フォア (Louis Faurer) やロバート・フランク (Robert Frank) といった写真家たちが登場し、このアーバスと同世代の写真家たちは品行方正な写真の歴史に反逆するかのような実験――型破りなトリミングや焦点のぼけた映像など――を始め、アーバスはそういった同世代の写真家とその実験精神とそのスタイルに共感した。
のみならず、当初、アーバスはロバート・フランクの型破りなフレーミングを模倣していたのだが、後のアーバスは、ロバート・フランクから影響を受けたとは認めることはなかった。

グロテスクなものを醒めた眼で記録するリゼット・モデル (Lisette Model) への共感から、アーバスはニュー・スクール・フォー・ソシアル・リサーチ (New School for Social Research) で教鞭を執っていたリゼット・モデルの生徒となり、後に師弟関係的というか、親子関係的というか、とにかく深い絆へと発展していった。

1964年頃、ウォーカー・エヴァンス (Walker Evans) にニューヨーク近代美術館 (Museum of Modern Art, MoMA) のキュレーター、ジョン・シャーコフスキー (John Szarkowski) を紹介され、親しくなると、アウグスト・ザンダー (August Sander) のポートレイトを研究すべきだとアドバイスされた。
アウグスト・ザンダーを研究することで隠されたものを暴き出すその作品とカメラの力というものを改めて意識させられたアーバスは、「かぎりなく魅惑的な視覚の謎」 に更に深く踏み込んで行くことになった。
伊藤俊治は 『写真都市』 の中でアーバスはザンダーの正当な後継者であり、E. J. べロック (E. J. Bellocq) のまなざしの系譜に連なっている写真家であると述べている。

べロックといえば、アーバスは、「禁じられたもの (the forbidden)」 や 「おぞましい題材 (evil subject matter)」 にカメラを向けた写真家ではあったが、ダイアン・アーバスをもって嚆矢とすという存在だった訳ではなく、E. J. べロックやブラッサイ (Brassai) やウィージー (Weegee) といった先駆者たちがその領域で大きな仕事を残していて、そういった写真家たちの系譜のなかにアーバスはいるともいえるだろう。

以上、『炎のごとく―写真家ダイアン・アーバス』 に登場する写真家の名前は他にもあるが、とりあえずこれくらいにしておく。
ここに抜き出した写真家でアーバスと比較されることが多いのは、ロバート・フランク、リゼット・モデル、アウグスト・ザンダー、E. J. べロック、ウィージー辺りだろうか。
とすると、女性はリゼット・モデルのみということになる。
ここにアーバス以降の写真家を加えるとしたら、例えば、シンディ・シャーマン (Cindy Sherman)、ナン・ゴールディン (Nan Goldin) やラリー・クラーク (Larry Clark)、そしてマリー・エレン・マークといった名前を挙げることが出来るだろうか (言うまでも無いが、ラリー・クラーク以外は女性)。
こうして女性写真家を多く加えたとしても、アーバスの場合、女性ばかりと比較されている、などということにはならないのだ。
マリー・エレン・マークは、ダイアン・アーバスとの作品の比較をジェンダーの問題と述べているのだが、果たしてそうなのだろうか?
その発言以前に自身の表現がアーバス的になるのを意識的に避けていると述べており、そこに 「影響の不安 (the anxiety of influence)」 (©ハロルド・ブルーム (Harold Bloom)) をみることも出来るのではないか。

そういえば、荒木経惟と伊藤俊治のダイアン・アーバスを巡る対談の中で、ナン・ゴールディンが二度話題になるのだが、それ以外の女性写真家でふと名前が挙がったのがマリー・エレン・マークだった。


 『インディアン・サーカス (INDIAN CIRCUS)』 から次の10点をポスト。

"Contortionist with Sweety the Puppy. Raj Kamal Circus, Upleta" (1989)
"Hippopotamus and Performer. Great Rayman Circus, Madras" (1989)
"Jyotsana Riding on Vahini the Elephant. Amar Circus, Delhi" (1989)
"Acrobat Sleeping, Famous Circus, Calcutta, India" (1989)
"Acrobats Rehearsing Their Act at Great Golden Circus. Ahmedabad" (1989)
"Shyamala Riding Her Horse, Badal, at Great Rayman Circus. Madras" (1989)
"Pinky, Sunita, and, Ratna. Great Royal Circus, Gujarat" (1989)
"Ratna Practicing at Great Royal Circus. Junagadh" (1990)
"Pinky and Shiva Ji with Laxmi in the Background, Great Royal Circus, Junagadh, India" (1990)
"Raja as a Baby. Gemini Circus, Bombay" (1974)

の10点。


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