Friday, May 26, 2006

Зинаиды Серебряковой (Zinaida Serebriakova) 01











Зинаи́да Евге́ньевна Серебряко́ва (Zinaida Yevgenyevna Serebriakova、Zinaida Serebryakova、ジナイーダ・エヴゲーニエヴナ・セレブリャコーワ、ジナイダ・エフゲニエヴナ・セレブリャコワ)
1884年に当時ロシアであった現ウクライナのハルキウ (:Харків, Харьков, Kharkiv) で生まれ、1967年9月19日にパリで亡くなった。
ロシア の画家。

ロシアでは芸術家の家系として知られたベノア家に連なる芸術家の家庭に生まれた。
祖父のニコラス·ベノア (Nicholas Benois) は有名な建築家であり、父のエフゲニー・ニコラエヴィッチ・ランセライ (Yevgeny Nikolayevich Lanceray) は著名な彫刻家であり、母エカチェリーナは描画の才能を持っていた。
また、母の兄弟には美術家・舞台デザイナーとして有名なアレクサンドル・ベノワ (Алекса́ндр Бенуа́) がいる (このアレクサンドル・ベノワについては、レオン・バクスト (Léon Bakst) のエントリを立てた時にまた改めて触れることになるだろう)。
ジナイーダの兄弟のニコライ・エヴゲーニエヴナ・ランセライ (Nikolay Yevgenyevna Lanceray) は後に有能な建築家となり、エフゲニー・エヴゲーニエヴナ・ランセライ (Yevgeny Yevgenyevna Lanceray) はロシア=ソビエトの大画とグラフィックアートの世界で重要な位置を占める人物となる。


1900年、ジナイーダ・エヴゲーニエヴナ・セレブリャコーワは、女子ギムナジウムを卒業し、プリンセス・M・K・テニシェワによって設立された美術学校に進学。
1901年にイリヤー・レーピン (Илья́ Ре́пин, Ilya Repin) の下で、1903年から1905年にかけてはヨシフ・ブラース (Осип Браз, Osip Braz) の下で学んだ。
1902年から1903年の間、イタリアに遊学し、1905年から1906年にかけてパリのアカデミー・ド・ラ・グラン・ショミエール (Académie de la Grande Chaumière) でも絵画を学んでいる。

1905年、ジナイーダはいとこのボリス・セレブリャコーワ (Boris Serebriakov) 結婚し、姓をセレブリャコーワにした。

ロシアの田園地方を舞台にそこに暮らす農家人々、特に女性たちをモチーフにした作品を多く描き、1911年には伯父のアレクサンドル・ベノワがレオン・バクストらと始めた雑誌 『芸術世界 (ミール・イスクーストヴァ, Мир иску́сства, Mir iskusstva)』 から拡がった芸術運動にも参加したが、ロシアの農村生活をテーマにしたジナイーダの調和のとれた作品は、この運動に参加した他の画家とは一線を画し、目立つ存在だったという。

幸福な創作活動を続けていたジナイーダだったが、1917年、十月革命ですべてが一変する。
1919年には夫のボリスが収監先のボルシェビキ 刑務所で発疹チフスに罹り亡くなってしまい、4人の子供と病気の母親を支えなくてはならなくなったが、決まった収入もなく、ネスクチノエ (Neskuchnoye) にあった財産も略奪され、生活に窮する状態に置かれることとなった。
お金のかかる油絵での制作は諦めざるを得ず、木炭や鉛筆で絵画に取り組むことになったが、そんなジナイーダの人生で最も辛い時期に描かれた作品の一つが、トランプタワーの組み立てに取り組む子供たちを描いた 《Карточный домик (The House of Cards)》 で、この作品に描かれた四人の子供たちはジナイーダの子供たちなのだそうだ。
この作品が好きで、しかしその描かれた背景を知らなかった自分はかなりロマンチックなものをこの作品から読み取っていて、事実を知ってそんな自分の甘さにげんなりとしてしまった。

当時、ソビエトではロシア未来派が人気があったが、ジナイーダは時流に流され宗旨替えすることもなく、人民委員達の肖像を描くという仕事に手を染めることもしなかったので生活が苦しかったが、ハルキウ考古博物館 (Харьковском археологическом музее) で展示物の鉛筆画を描く職を得ることができた。

1920年12月、ジナイーダはペトログラードにある祖父のアパートに移り住む。
十月革命の後、個人のアパートの住民は他の住民住居をシェアすることを強制されたが、ジナイーダは運よくモスクワ芸術劇場のアーティストたちと四等分することになり、これがきっかけで、共同生活をおくる間、劇場生活をモチーフにした作品を制作した。
また、娘のタチアナはバレエのアカデミーに入り、ジナイーダはマリインスキー劇場 (Мариинский театр) を舞台にした一連の作品を制作している。

ジナイーダ・セレブリャコーワは1924年の秋に仕事でパリに行くことになるのだが、以後、亡命生活を強いられる。
パリ以降についてはまた改めて別のエントリで子供以外の女性をモチーフとした作品のエントリを立てた時にまとめたいと思うので、ここでは省略。


鏡を向いて(つまりこちらに向いて)髪をとかしている女性の絵をロシアの方のブログなどでたまに見かけることがあり、気になって調べてみたところ、ジナイーダ・セレブリャコーワというロシアの女性画家の1909年の作品 《Автопортрет:За туалетом (Self-portrait: At the Dressing-Table)》 だということが判明。
他の作品も見てみたいと探して眼に付いたのが、トランプを組み上げている少女と少年たちの絵で、上でも触れたが、ジナイーダがどういった画家なのか全く情報を持ち合わせていない状況だったので、かなり自分勝手なロマンチックな想像を、つまり少年少女の恋愛模様をこの作品に見てしまい、絵に緊張感が漲っているのはそのせいだとひとりドキドキする始末で、この絵から小説がひとつ書けそうなそんな感じの絵だ、などと思っていたのだ。
的外れもいいとこだったのだが。

ポストした作品はいずれも十月革命の作品で、上述の通り、ジナイーダを取り巻く生活環境は決して明るいものとはいえなかった。
しかし、描かれた作品からそういった生活の暗い部分を見つけ出すのは難しい。
モデルを務めている子供たちはみな――バレエのバックヤードを描いた作品は中心に据えているのはタチアナで、それ以外は同じバレエアカデミーに通う少女たちなのだろう――ジナイーダの子供と思われるが、生活の苦しさを感じさせない屈託のない姿が描かれている。


ポストしたのは、

"Катя с натюрмортом" (1923)
"Tata with vegetables" (1923)
"На кухне Портрет Кати" (1923)
"таня и Катя. девочки у рояля" (1922)
"На террасе в Харькове" (1919)
"-" (-)
"Лежащая обнаженная Катя" (1923)
"Спящая девочка на синем (Катюша на одеяле)" (1923)
"сильфиды  (  Балет  Шопениана )" (1924)
"Карточный домик (The House of Cards)" (1919)

の10点。


Wikipedia
Русские художники - Зинаида Серебрякова - vadiman79 - Photo.Qip.ru / id: fvas
Зинаида Серебрякова
Белье, которое хочется... носить | Зинаида Серебрякова (1884-1967). Обнаженные работы и портреты/ Дайна женское белье, Дайна, Дайна белье, белье Дайна,
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