Friday, May 26, 2006

Sarah Moon











Sarah Moon (サラ・ムーン)
1941年にフランス中南部オーヴェルニュ地域圏 (Auvergne) 北部にあるアリエ県 (Allier) の温泉保養地ヴィシー (Vichy) において、ユダヤ人の家庭にマリエル・アダンギュ (Marielle Hadengue) として生まれた。
パリを拠点に活動しているフォトグラファ。

1940年6月のドイツ軍の侵攻でフランスが占領下に置かれたことで、ユダヤ人であった一家は国外への逃亡を余儀なくされ、イギリスへと逃れた (サラ・ムーンの生まれをイギリスにしている記事を検索中に幾度か見かけたが、生後間もなくイギリスに渡ったのであって、生まれはフランスである)。
パブリック・スクールに通い、絵の勉強をする少女時代を過ごす。
1960年、マリエル・アダンギュは19歳でモデルとなった。
その辺りの事情について、日本で開催された 「サラ・ムーン展」 の図録に掲載されたインタビューでは、

モデルの仕事から始まったんです. それさえ偶然でした. 誰かに写真のモデルをやってみないかと言われ, その頃他にすることもなかったので引き受けたんです. モデルから写真家になったスーザン・アーチャーに町で会ったのは19歳の時でした.
- サラ・ムーン
(「サラ・ムーン展」 図録より)

と答えている。
Wikipedia などの記事からスーザン・アーチャー (Susan Archer) にスカウトされてモデル業界へ入ったのだと理解していた。
しかし、この発言だとそれ以前にモデルに誘われていて、そんな時に偶然が重なるようにアーチャーに声を掛けられたということになる。
これはどういうことなのだろう、どちらがより正確なことなのだろうと瑣末なことに拘泥し始めて検索に没頭したものの、いつまでたっても 「より正確なこと」 なるものを見つけ出すことができない。
検索作業から開放されず、足踏み状態になってしまったので、この件はここで終了。

スカウトされた当時マリエル・アダンギュ (つまり、後のサラ・ムーン) は画家と結婚しており、モデルの仕事について夫に相談してみたところ、いいんじゃないのと反応が軽いものだったこともあって、モデルを職業にするという気概もないままキャリアを開始――そんなマリエル・アダンギュを最初に撮影したのは、もちろん、街中で声を掛けてきたアーチャーだった。
思いがけなく始めたモデルではあったが、マリエル・アダンギュは業界で成功。
一流ファッション誌の常連モデルとして活動するようになってから、初めて、写真を写真として意識することになったとサラ・ムーンは後に語っている。
そして、恒常的な被写体になったことでマリエル・アダンギュは写真に興味を持つ。
スタジオ撮影での待ち時間や楽屋で手持ち無沙汰だったことも手伝って、カメラを手に、待ち時間などで暇を持て余しているモデルたちを撮り始めた。
すると、中にはPR用の写真が欲しいというモデルもいて、頼まれて撮影することもあったという。
モデルとして仕事の選択もできるようになり、空いた時間に写真を撮って過ごす、それなりに充実した日々を送っていたある日、マリエル・アダンギュの撮影した写真を見たファッション誌の編集者が 「OK、5ページあげるから好きなようにやってみなさい」 なんてことを言ったのだそうだ。
おそらく、編集者のこの気まぐれな依頼がファッションフォトグラファ転向への後押しとなったのだろう。
マリエル・アダンギュは1966年までロンドンやパリでモデルとして活動したが、その後、1970年から本格的にファッションフォトグラファの道を歩んでいく (ビル・レイ (Bill Ray) という 『LIFE』 誌で活躍したフォトグラファが1969年に駆け出しのフォトグラファとして経験を積んでいる頃のマリエル・アダンギュを撮影している)。

マリエル・アダンギュはファッションフォトグラファとして活動を始めてしばらくした頃に、名前をサラ・ムーンに改めた。

以上、フランスで生まれたサラ・ムーンが、イギリスで成長し、モデルとしてファッションの世界に飛び込み、その後ファッション・フォトグラファとして新たにスタートをきるまでの軌跡をまとめてみた。

モデルから転向したファッション・フォトグラファといえば、以前エントリを立てたエレン・フォン・アンワース (Ellen von Unwerth) もそのひとりだった。
モデルから転向して写真家になったのは誰なのだろうか、アンワースの時代にはすでによくある事例だったのだろうかといった疑問が湧かなかったのは、多分、アンワースが写真家だったボーイフレンドの影響でカメラを手にし、いじっているうちに自然な流れとして、モデルからファッション・フォトグラファへの職業転向が起きたのだと受け止めていたからなのだろう。
しかし、アンワースがモデルになった頃、サラ・ムーンはすでにマリエル・アダンギュから名前を改めてファッションフォトグラファとして活躍していたのだ。
とすると、アンワースがサラ・ムーンという先行する事例を見知っていた可能性があり、アンワースが自然な意識の変化でジョブチェンジしたと考えるのは素直すぎるのではないかという気がしてくるが、これ以上は考えても先に進むことはないので、サラ・ムーンの場合についても考えてみたい。
いや、モデルから転向したファッション・フォトグラファであったスーザン・アーチャーにスカウトされてモデルになったサラ・ムーンは後にアーチャーと同じ道を歩むことになるのだが、その時サラ・ムーンがロールモデルとしたのが他でもないこのアーチャーだったのではないかという疑問が湧いて、アンワースの場合ももしかしたらと思ったのだから、順番が逆になっているのだけど。
結果どうだったのかというと、スーザン・アーチャーについて調べてみても、どういった人物だったのかほとんど情報がなく、サラ・ムーンと何がしかの交友が続いたということがあったという情報もなかったことから、推測を裏付けることは出来なかった。
ネット上にあらゆる事に関する詳細な情報があるわけなどない、という当たり前のことを改めて思い知らされ、スカウト云々のことも含め、徒労感だけが残る結果となった。

蛇足部が思いのほか長くなってしまったが、そもそも、サラ・ムーンとして活動する以前の経歴だけまとめても意味がないだろ、と思わなくもない。
が、モデルを経験して写真家に転向したことが、サラ・ムーンのスタイルの成立に大きく関わりがあると考える人もいる。

 というのも, 彼女は19歳の時, 自らモデルとなり, 『エル』 や 『マリ・クレール』 といった雑誌のために様々なポーズを取り続けたという経歴を持っているのである.
 つまりサラは, 60年代を通じてパリでファッション・モデルの仕事をおこない, そうした男性写真家たちの痛いほどの眼差しを浴び続けていたのだ.
 いわばモデルたちのいる場の空気を変質させてしまう暴力的な男の視線に対する反抗が彼女をしてカメラを手に取らせた理由といえるのかもしれない.
 サラは自分の考えや表現を主張したり, 自分の意図や欲望で被写体をつくりかえたりするのではなく, 一瞬のお伽噺や寓話を現出させるために写真を使い, 男の眼が決してとらえられない, 淡く, 美しい時間を, 撮りおさえようとした.
- 伊藤俊治 「月の光のなかの少女たち――サラ・ムーンの世界」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

こうして、決定的な一瞬を捉えようとする意思に支えられたカッチリと構築されたモードのイメージに、サラ・ムーンは新たなイメージ――淡くて儚い甘美なイメージというか、猫の目のようにクルクル変わる捉えどころのないイメージというか、陳腐な言い回しになってしまったが、とにかくそんなイメージ――を持ち込み、1970年代から1980年代にかけて新たな潮流を生み出すことになったと、写真評論家の伊藤俊治は 「サラ・ムーン展」 図録に寄稿したエッセイの中で述べていたりもするのだから、まったく無意味な経歴のまとめではなかったのだということにしておく。

この図録には、こういった要因があってその結果サラ・ムーンの写真スタイルが成立したという伊藤俊治の論の進め方とはいささか趣を異にしたエッセイを写真家の奈良原一高が寄稿していて、サラ・ムーンの揺蕩う大気のような、何処か捉えどころのないイメージがモード写真の世界に登場した頃のことを回想しつつサラ・ムーンについて語っているのだけど、例えば、写真家とモデルの関係については、次のように述べている。

 画家とモデル, 見るものと見られるものとの関係が絵画の, そして撮るものと撮られるものとの関係が写真の世界を構成する眼には見えない糸ならば, 曽つて自分自身がモデルであり, いま写真家であるサラ・ムーンはその両者から発信する二本の視覚の糸をいつも身内に宿しているはずである. 僕たちが彼女の写真の中の女たちに彼女自身を見たような気持ちになってしまうのは, 恐らく撮影の瞬間に彼女がモデルの中身とすり変わってしまう能力を身につけているからに他ならない. そのとき, ファインダーの中でモデルたちは彼女に憑依されてしまうのだ. 女たちの顔がさびしげなのはそのせいなのかもしれない.
- 奈良原一高 「パリの化身,サラ・ムーン」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

先に引用した伊藤俊治のエッセイには堅苦しく論じるというところはないにしてもやはり評論家の書いたものなので分析的であったが、それに対し、奈良原一高はエッセイの中でサラ・ムーンを詩人に喩えているのだけど、その喩えと同じ意味において、奈良原一高のこのエッセイも詩的にサラ・ムーンを捉えているといえるだろう。
奈良原一高は、写真史や技術論を踏まえながら、しかし論じるというような大上段に構えることなく、モード写真の世界にそれまで存在しなかったといってもいいフラジャイルな世界観を生み出したサラ・ムーンのことをエレガントに語っている (どちらかというと伊藤俊治寄りのエントリばかり書き散らかしている自分には、こういった資質が全く欠けている)。
エッセイは、ニューヨークのダコタ・ハウスに住んでいた友人のファッション・フォトグラファ、ヒロのアパートに転がり込んでいた頃のことがまるで数日前の出来事を語るように語り始められ、ある日の夕食後、二人の会話は珍しく写真の話になったこと、その時話題となったのは、新人写真家としてニューヨークで活躍するアーバスとパリで活躍するサラ・ムーンのことだったと回想を綴っていき、奈良原一高は、対極的な位置にいるといっていいこの二人の写真家が話題となったことについて運命的な懐かしさを覚えつつ、二人の違いを、ストレートフォトグラフィやソーシャル・ドキュメンタリに連なるダイアン・アーバスの写真とピクトリアリスム (と奈良原一高は明示していない) の匂いに包まれたサラ・ムーンの写真、徹底してドメスティックであったニューヨークを拠点にしていたダイアン・アーバスの写真と仕事で訪れたあらゆる場所をパリにしてしまうサラ・ムーンの写真と対比していくと (この辺りの対比の件は幾分分析的)、生起する出来事をストロボの硬質な光で捉えようとしたダイアン・アーバスとそのストロボ光によってオールド・ファッションとなってしまったタングステン光でゆったりとした時間のリズムを捉えるサラ・ムーンと比較した辺りから、本格的にサラ・ムーンの世界へ分け入っていく。

(・・・・・・) そして, 彼女の写真の中の光, それは正しくパリの光そのものである. いちどパリに住んだことのある人なら, あの重くよどんだパリの空気の中で発光し続ける燈心草のように柔らかいパリの光の肌ざわりを彼女の作品の中に発見するだろう. 彼女の写真にふりそそぐ光は木もれ陽であったり, 木立ちの蔭に寄りそうマヌカンたちにそよぐ風のように, 決して輝かしい太陽が登場人物の顔をダイレクトに照らすことはない. 室内のくらがりの中では何処か思いがけない方向から屈折した灯りが女たちの姿態を美しく浮かび上がらせる. そのあぶり出されたような眼射しは逃げてゆく時間を問いたげに追っているかのようだ. 無為という最高のぜいたくを身にまとって彼女たちは写真の夢の中に住んでいる.
- 奈良原一高 「パリの化身,サラ・ムーン」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

(・・・・・・) サラ・ムーンが一見時代遅れに見えるタングステン光を時の彼方から取り出して自分の写真を出発させたのは彼女の心のなかで発光する光を思い通りに描くためのデリケイトな闇の空間が必要だったためではないだろうか. 眼はストロボ光を実感をもって正確に追うことは出来ない. 経験と推理力をはたらかせて, 訳文を読むようにポラロイドフィルムによるテストの結果を信じてシャッターを切るしかない. それよりは自分の感性を眼に託して, 光の所在を味わいながら, 見える限りの世界を霊的に取り扱う方が詩人の生き方にふさわしいのだろう. 技術の進歩や歴史の展開は時として皮肉な側面をみせる. 感光材料の急速な進歩や電磁化は超高感度の世界をこれからも生み出してゆくことだろう. やがては大光量のストロボの光はそれほどには必要がなくなり, そのときサラ・ムーンの技法は逆に写真の未来的な相貌につながってゆくことだろう.
- 奈良原一高 「パリの化身,サラ・ムーン」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

 サラ・ムーンの写真には“パリ”という言葉のもつ既視感 (デジャビュー) がいつも漂っている. 世界中の皆が望んでいるパリ, こうあって欲しいと想われるパリの光と時間が, その空虚な空間の中には塗り込められている. 僕たちの青春のイメージを育てたジャン・コクトーの 「オルフェ」 や 「美女と野獣」 の映像, 「悪魔が夜来る」 の忘れがたい瞬間, そのような記憶のオリの中に沈んでいるパリさえもサラ・ムーンの世界の中では生きているのである. 誰も彼女の写真に失望することはない. もしかすると, それはサラ・ムーン個人 (ひとり) が作っているのではなく, さまざまな人間の欲望が彼女を使って作り上げているパリのイメージなのかもしれない. (・・・・・・) サラ・ムーンはパリの化身なのだ.

 「いま, 聞こえているサラ・ムーンのようなピアノは誰の曲なの」 「エリック・サティよ」
- 奈良原一高 「パリの化身,サラ・ムーン」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

まるで数日前の出来事を語るかのような過去の回想から始まったエッセイは、それ自体がどこかセピア色がかっていて、奈良原一高と同じ時代の記憶を共有している世代では全くないにもかかわらず、郷愁を感じずにはいられない。

奈良原一高のエッセイといえば、『ユリイカ』 1993年10月号 【特集 ダイアン・アーバス 聖なるフリークス】 に寄せたエッセイの、アーバスのワークショップに参加した頃のことやアーバスの自殺、その後アーバスが信頼し依存していたアートディレクターのマーヴィン・イスラエルとの出会い、日本でアーバースの最初の個展が開催されるまでを回想する内容が強く印象に残っている。
この回想もやはり、まるで数日前のことのように当時を回想する内容であるのだけど、そうでありながら、甘い郷愁やレトリカルな比喩を抑えた、アーバスへの哀惜に満ちた回想となっていて、ただただ素晴らしい。
そういったエッセイがまだ他にも多くあると思われるので、一冊にまとめて欲しいところなのだけど、そういう話が寄せられたとしても、恐らく、それを本人が固辞しているために実現は難しいのだろう。


「サラ・ムーン展」 図録に写真家のフランク・ホーヴァット (Frank Horvat) のサラ・ムーンへのインタヴューが収録されている。
このインタヴューが部分訳であることを知ったのは、後にホーヴァットの 『写真の真実 (Entre vues)』 という写真家へのインタヴュー集を購入した時だった。
『写真の真実』 は、軽くジャブを打ち合うような対話を意図して仕掛けるホーヴァットの態度もあって、適度に緊張感のある内容となっているのだけど、サラ・ムーンへのインタヴューもやはりホーヴァットは議論になる話題を意図して持ち掛けていているので、共感する者同士の温い対話には収まっていない (図録に収録された部分訳は、議論をしているところを意図的に避けて訳されたものだった)。

ホーヴァット: (・・・・・・) 君は、注文は写真家の創造性を排除するものではない、とたびたび力説している。僕は君に反論する気は全然ないけれど、でも本当の問題はそこにあるのかな、と疑問に思っている。注文よりも、演出を問題にすべきではないだろうか?映画を監督するように写真を監督することができるだろうか?このことは写真の本質と両立すると思うかい?

サラ・ムーン: 私はいつも、写真というものを演出する一つの可能性、映像で物語を語る一つの可能性として感じていたわ。私は最小限の情報ほんの手がかりしかない映像、場所が特定されない映像で、しかも私に話しかけるような、それまでに起こったこと、またこれから起こることを示唆するような映像を求めているの。こうした撮影方を認めない人たちがいるだろうということはわかっています。でもなぜ一種類の写真しかないのかしら?私は、一着の服を着た女性についての情報以上の、物語的で喚起的な映像を、私の選ぶ要素を使って創作したいと思っているの。
- フランク・ホーヴァット 『写真の真実』より

引用したのは、その後、鋭いジャブの応酬となる端緒となった部分。
ホーヴァットの意図としては、演出で世界を構築してしまうと、写真から突然のアクシデントが入り込む余地というものが奪われてしまうのではないか、ということを問うた質問だったらしいのだが、ホーヴァットの問いかけからそれを読み取るのは難しく、実際、サラ・ムーンの答えはそれとはズレていた。
ホーヴァットは自分の質問の意図を説明し、そこからその問題を巡る議論へと発展していくのだけど、とりあえず、ここでは、サラ・ムーンが写真における演出についてどう考えているのかが分かるやり取りとして、この部分を引用しておく。

このインタヴューには、幾つか具体的な作品への言及もある。
例えば、今回チョイスした作品だと、写真集 『赤頭巾 (Le petit chaperon rouge)』 に収録されている作品。
ここでもホーヴァットが意図的に挑発的なことを言い、議論を吹掛けている。

ホーヴァット: (・・・・・・) 我々の人気投票で全会一致を見たのは 「街路の少女」 の写真だ。この少女は光線のなかでくるっと廻っているように思える。我々はこの写真を一冊の写真集の中に見つけた。ところが、この写真が収録されている 『赤ずきん』 では、僕は特にこの写真からは感銘を受けなかった。これはたぶんこの小さな写真集を僕があまり好きではないせいかもしれない・・・・・・

サラ・ムーン: この写真集の何が気に入らないの?

ホーヴァット: まさにシークエンス (続き画面) になっていることだ。この写真集を見ると、僕はこれを演出しているサラを考えざるを得ない。そこにはもう不思議 (ミステリー) がないんだよ。でもこの写真一枚だけを切り離して見ると、「この少女はだれだろう? サラはどういうわけでこの少女に巡り会ったのか? 一体何が起こったのか?」 という疑問が湧くんだ。

サラ・ムーン: ある雑誌の六、七ページを埋めるために作った一連のお話の中から、私が個展のためにこの一枚だけを取り上げたのは確かよ。まるで私はこの写真一枚だけのために仕事をしたみたい。あなたが邪魔に思うのは組写真 (シリーズ)、あるテーマについての変化なのね。

ホーヴァット: そうしたシリーズは君の料理法を暴露するからだ。

サラ・ムーン: それと、それぞれの映像 (イメージ) が初めと終わりを推測させなければならないのに、私は既に初めと終わりが出来上がっている物語を語るから、ね。 繰り返しがひとつの鍵 (キー) を明らかにするし、いったん鍵がわかったら、人々はもう同じ目付きでは見なくなる。それには賛成だわ。 「何事も起きない写真を撮りたい」 と私はよく考えるの。私の夢はこうした浄化に到達することかもしれない。でも、取り除くためには、最初に何かがなければならない。何事も起きないためには、まず何かが起きなければならないのよ。
- フランク・ホーヴァット 『写真の真実』より

童話 『赤ずきん』 をモチーフにしたシリーズの一枚として知られる写真の演出方法についての懐疑をホーヴァットが述べ、議論に発展していくかに思われたのだけど、いつの間にか、サラ・ムーンのどこか哲学的な夢、写真家としての理想的境地へと話が拡がっていった。
このインタヴューには、他の作品への言及した部分やカラー写真について語っている部分もあり、そういった部分についても面白く読んだが、その辺りについては次の機会に持ち越し、ということにしたい。

ホーヴァットが撮影する側から 『赤頭巾』 シリーズへの不満をサラ・ムーンにぶつけていたのに比べると、伊藤俊治が 「月の光のなかの少女たち――サラ・ムーンの世界」 で同シリーズに付いて述べていることはかなり趣が違っている。

(・・・・・・) ボローニャ図書展で 「子供の部グラフィック賞」 を受賞した 『赤頭巾』 には, そんなサラのナイーヴな感性によって人間の形態のなかで最も傷つきやすい存在である “少女” の危うさが見事にとらえられている.
 『赤頭巾』 では, 写真の画面そのものが, わずかな物音にもびっくりしそうなくらい敏感になっていて, 主人公の少女は, どの場面でも男の眼でオブジェ化された一義的なロールにはおさまらず, これから何かが起こりそうな期待と不安でゆらめき, ふるえている.
 というより, サラ・ムーンの写真のなかではどの女もみな, この少女の時代へ戻ってゆくのかもしれない.
 いや, 少女の時代に誰しもが夢見た, はかなく, やるせなく, 甘ずっぱく, せつない想像の世界へ, 再び戻れるのかもしれない.
 サラ・ムーンの写真集を一枚一枚めくっていくと, 彼女が追求しようとしているものは, すべてがこわれやすく, 消え去ってしまいそうなあえかな瞬間ばかりであることに気がつく.
 そうした移ろいやすく, 傷つきやすいものであるがゆえに, 撮りおさえられた感情や記憶の写しはよりいっそう鮮やかに光り輝くのだろう.
 「私が写真を通して一番表現したいと思うのは, いつも, 時間とあまりに短くてはかないもの, そう, つかの間の関係なのです」.
 彼女自身が言うように、サラ・ムーンには繊細な美しさの持つゆらぎを, もうひとつのフェミニズムの流れにのって記録し続けてきた.
 彼女の写真にあふれているのは美しさだけではない.
 美しさそのものではなく, 美しさが消えてゆく瞬間なのだ.
- 伊藤俊治 「月の光のなかの少女たち――サラ・ムーンの世界」
(「サラ・ムーン展」 図録より)

ホーヴァットは、『赤頭巾』 シリーズについて、演出の行き届いた完全にコントロールされた写真なのだけど、そのために写真に本来あるはずの 「不慮の出来事を容れるマージンがなくなるような限界」 を突破してしまって、そこには不思議がなく、想像力が喚起されず、演出家の意図ばかりに眼がいく、と思ったという。
確かに予め用意された物語によって統御された世界には、偶然性や事件性というものが入り込む余地は全て塗りつぶされてしまっているようにも思える。
だけど、伊藤俊治の言う 「写真の画面そのものが, わずかな物音にもびっくりしそうなくらい敏感になっていて」、震えるような、密かな囁きのような、触れると粉々に砕けてしまうような瞬間が見る者に伝わっていることもあるのではないだろうか。
そんなことを言うと、それはいささかロマンティシズムが過ぎるのでは?とつっこまれること受けあいだが、そんな時は、まあ、それでいいじゃないかと開き直ることにしたい。


ポストしたのは、

"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"Le petit chaperon rouge" series (1983)
"-" (-)
"July" (1988)
"Coincidences 2001" series (2001)
"Coincidences 2001" series (2001)
"She runs under the bridge along the railway" from "Circus" series (2002)


の10点。
最初の4点が写真集 『赤ずきん (Le petit chaperon rouge)』 からのチョイス。
学生の頃、古本屋で手に取ったサラ・ムーン展の図録で最も印象に残ったのが、エントリの最初にポストした 『赤ずきん』 シリーズの作品で、サラ・ムーンに 『赤ずきん』 という写真集があることを図録を見る前に知っていたのか、その図録で知ったのかは憶えていないが、とにかく、図録で見て以降、ある時期まで、サラ・ムーンと聞いて最初に思い浮かべるのはこの作品だった。
しかし、当時古本屋で手に取っただけだったその図録をずっと後になって購入してみたところ、図録のなかでフィーチャー作品の中に記憶に残っている 『赤ずきん』 の作品はなく、展示作品としてまとめられたページの中に小さく載せられているだけだったので、ひどくがっかりしたのだった。
今思うと、図録で見る以前に別の本か雑誌でその作品を見たことがあって、図録でその作品が 『赤ずきん』 というシリーズの一枚だと知ったのかもしれないが、図録を古本屋で購入した時に注意深く記憶の整理をしなかったため、実際のところがどうだったのか、忘却の彼方になってしまっている。
まあ、こういった誰得のあやふやな思い出話もそのうち忘れてしまうのだろうし、いつか読み返して、そういえばそんなことがあったかもと思い出すことがあるかもしれないことなので、備忘録的に書き残しておく。

Wikipédia - Sarah Moon
archivesarahmoon
Sarah Moon - Michael Hoppen Gallery

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