Lewis Wickes Hine (Lewis W. Hine, Lewis Hine、ルイス・ウィッケス・ハイン、ルイス・H・ハイン、ルイス・ハイン)
1874年9月26日にウィスコンシン州の東部に位置するウィネベーゴ郡 (Winnebago County) の都市オシュコシュ (Oshkosh) で生まれ、1940年11月3日にニューヨーク州の郊外の村ドブス・フェリー (Dobuus Ferry) にて没。
20世紀初頭のアメリカの教師兼アメリカの写真家。
子供の頃に父親が事故死し、早くから働き始めた。
生活費を稼ぐ傍らで大学進学のための学費も稼ぎ、1900年、シカゴ大学 (University of Chicago) へと進学。
シカゴ大学在学中にニューヨーク州立師範学校の教育学教授フランク・マーニー (Frank E. Manny) に出会い、教師になることを強く勧められる。
シカゴ大学で社会学を学んだ後、コロンビア大学 (Columbia University)、ニューヨーク大学 (New York University) でも社会学を学んだ。
卒業後、フランク・マーニーが校長となったなったニューヨーク市にあるエシカル・カルチャー・スクール (Ethical Culture Fieldston School, ECF) の教師となった。
マーニーは写真が教育に有効であると考えており、ルイス・ハインに写真技術の習得を促し、教育の一環として写真を授業カリキュラムに取り込む試みを行った。
1904年、サラ・アン・リッチ (Sara Ann Rich) と結婚。
この年、授業カリキュラムの一つとして、ニューヨーク港にあるエリス島 (Ellis Island) での移民の撮影が始められた。
当時、ニューヨーク港に辿り着いた移民たちは、一旦エリス島にある移民管理局の施設に収容されることになっており、エリス島は日々何千人もの移民で溢れていたという。
ヨーロッパからの移民のピークは1907年で、年間で128万5349人もの移民 (東南ヨーロッパからの移民が80.7%を占め、残りの19.3%は北西ヨーロッパからの移民) がアメリカに押し寄せた。
例えば、ニューヨーク・インディペンデントを代表する映画監督であり、俳優としても活躍したジョン・カサヴェテス (John Cassavetes) の父親はギリシャ南東部の港町生まれで、エリス島が移民管理局として機能していた頃にアメリカへとやって来た一人だったという。
カサヴェテスは父親から聞いた当時のことを次のように語っている。
親父は11歳の頃、(姉と)弟といっしょにアメリカに移住して来た。親父はギリシアのピレウス[アテネに隣接するギリシア南東部の港町]で生まれて、ある日町に現れた宣教師から、その国のことを聞いたんだ。アメリカは親切な国で、働きながら勉強したければ、アメリカの人たちは心から歓迎してくれるんだよ、とね。
(彼らは) まずブルガリアへ行って――そこでおばを親戚に預けた――、それからコンスタンティノプールへ行き、船賃を稼ぐまで働いた。親父とその弟がエリス島 [合衆国移民局の施設があったニューヨーク市ハドスン河口の小島] に着いたとき、アメリカに誰か知り合いはいるかの聞かれて、ロード・アイランドのプロヴィデンス [ロード・アイランド州の湾岸都市で州都] のことを聞いていた親父は、そこに知り合いがいると答えた。証書を見せろと言われたんだけど、何も持っていないと答えた。すごく裕福な男が彼らの前にボートでニューヨークについているんだとはったりをかましてね。それで親父はお得意の名文句をのたまったわけさ。 「ぼく、働いて勉強したいんです」 ってね。
ある入国管理官が親父と叔父にロヴィデンスまでのバス賃5ドルをくれて、二人は目的地に着いたんだけど、誰ひとり知っている人なんていなかった。
- レイ・カーニー編 『ジョン・カサヴェテスは語る』 より
これは一例に過ぎないが、エリス島にはヨーロッパから多くの移民が押し寄せていた時代、ECF の生徒たちは学校のカリキュラムとしてそういった移民に触れることとなった。
生徒たちは、エリス島に到着するその大勢の移民と既にアメリカで生活している人々の間に違いというものはなく、平等なのだということを身をもって体験することになるのだが、それこそがマーニーが生徒たちが移民の撮影を通して学んで欲しいと望んだことであり、大学で社会学を学んだハインはそのカリキュラムに適任と判断され、担当として抜擢されたのだろう。
エリス島で移民の撮影するという試みは数年に亘って行われ、1904年から1909年にかけ、ハインも生徒に混じって移民たちを撮影したが、収容施設での撮影に止まらず、移民者の落ち着き先にまで同行してその姿を記録し、200枚以上のガラス乾板を残している。
社会学的視点のあったハインは、およそ5年に亘って行った撮影の間に、移民についての問題意識とそれをどう見せるのかという方法論を独自に作り上げ、写真による記録が社会的な変革と改革のための道具として使用することが出来るという実感を得たのだという。
ハインの対象を客観的に分析して記録するという姿勢はこの時点でほぼ出来上がっており、以後の活動でそれが更に徹底されることになるのだが、それがフォトドキュメンタリの礎となって、後にフォトドキュメンタリを担うことになる写真家たちに影響を与えた。
ECFでハインの教えを受けた生徒の中に、後に写真家となったポール・ストランド (Paul Strand) がいる。
アルフレッド・スティーグリッツ (Alfred Stieglitz) らのモダニズムの潮流に影響を受けた写真を撮るようになっても、人物を撮影する場合は社会のマイノリティを被写体とする場合が多く、この点について金丸重嶺は 『写真芸術を語る』 の中で、ストランドが初めて教えを受けたハインからの影響ではないかと指摘している。
1906年、ハインは、ラッセル‐セージ財団 (Russell Sage Foundation) の撮影スタッフとなり、『ピッツバーグ調査 (ピッツバーグ・サーヴェイ "Pittsburgh Survey")』 と呼ばれることになるペンシルバニア州の典型的なアメリカ工業都市ピッツバーグの大規模な社会学的調査に写真家として参加し、製鋼地区での生活を撮影し、劣悪な生活環境、貧困に喘ぐヨーロッパ移民たちを目の当たりにすることとなった。
エリス島から落ち着き先に移った移民たちのその後の姿はハインに大きなショックを与えたのではないだろうか。
この時代はまだドキュメンタリという分野が成立していない時代で、エリス島での撮影である程度の手応えがあったとはいえ、先達の経験による蓄積を持たぬハインは、学生時代に学んだ社会学とエリス島での経験を武器に手探り状態で取材を推し進めた。
その結果、『ピッツバーグ調査』 に収められたハインの写真による報告は、政府の政策にも影響を与えることになったという。
1908年、国家児童労働委員会 (National Child Labor Committee, NCLC) の写真家に専念するため教職から去ると、その後の10年間、カロライナ・ピードモント (Carolina Piedmont) という広範な地域でで労働に従事する児童たちのドキュメンタリを撮影し、アメリカ産業で地道な努力を続ける国家児童労働委員会の手助けをした。
1913年、綿工場で仕事に従事する児童労働者たちを取材したドキュメンタリ写真シリーズを制作。
アメリカにおけるドキュメンタリ写真の創成期に活躍した写真家たち――ジェイコブ・リース (Jacob Riis)、ルイス・ハイン、ウォーカー・エヴァンス (Walker Evans)、ドロシア・ラング (Dorothea Lange)、ベン・シャーン (Ben Shahn)、ベレニス・アボット (Berenice Abbott)、フォト・リーグ (Photo League)――に焦点を当てた写真展 『「明日を夢みて」 アメリカ社会を動かしたソーシャル・ドキュメンタリー』 が2004年11月から2005年01月にかけて東京都写真美術館で開催され、展示会そのものを見たわけではないが、図録を手に入れることができた。
その図録に寄稿された鈴木佳子のテキスト 「ドキュメンタリー写真を通して写真家が伝えたかったこと」 で、ハインが国家児童労働委員会からの依頼で行った取材について上述の内容よりも詳しく述べられている。
1906年から1918年まで、1921年に再び、ハインは国家労働委員会 (National Child Labor Committee) に委託され、子供たちの不当な労働状況をカメラに収めた。当時のアメリカでは1893年に襲った経済的な恐慌の影響もあり、工業を始めとする産業の担い手として、低賃金による子供たちの労働力が必要であった。そのため、12歳以下の子供たちでも1日12時間以上も働くという状況は決して珍しくはなかった。子供たちを保護しより良い環境を与えられるよう、雇用側の企業が不当な労働を彼らに強いる現状を記録することがハインに課せられた任務だった。
ハインは全米各地を旅して、紡績や缶詰製造を始めとする工場での仕事、炭鉱での石炭の粉砕、農場での作物摘み、新聞売り、飲食店の下働き、靴磨きなど、あらゆる種類の職業で働く子供たちの姿を捉えた。なかでも特に容易ではなかったのが工場内での撮影だった。ミノックスの様なスパイ用の小型カメラはもちろんのことながら、35ミリのライカも開発されていなかったこの時代に、大判フィルムを装着した大型カメラによる撮影はいかに困難であっただろうか。ハインは機械の取材を名目に工場内に入り込み、サイズを読者にわからせるためと偽って、機械の横に子供たちの姿を入れることに成功した。しかし、本当の撮影目的が工場主にバレ、危ない目にあうこともしばしばだったという。
これらの仕事はハインが取材した詳細なキャプションとともに 『調査 (SURVEY)』 などの出版物に掲載され、児童労働法の成立のための社会機運を高めることに大きく役立った。
このハインの成しえた偉業の精神は1930年代の 「FSA (農業安定局)」 の写真家たちの活動へと受け継がれていく。
- 鈴木佳子 「ドキュメンタリー写真を通して写真家が伝えたかったこと」(東京都写真美術館編 図録 『「明日を夢みて」アメリカ社会を動かしたソーシャル・ドキュメンタリー』 より)
フォトジャーナリズムは、19世紀中葉の戦争報道の一環として撮影された写真などがその起源といわれており、狭義の分類においてはニュース性の高さや速報性に重きが置かれる、とされている。
それに対し、ドキュメンタリ写真は、長期的な計画に基づいたアプローチと社会的で分析的な視点でより複雑に構成されており、その始まりは、デンマーク移民のジェイコブ・リースが 『ニューヨーク・トリビューン』 紙の記者としてニューヨークのスラム街の劣悪な環境の中で生活する移民たちの姿をつぶさに取材して写真に記録し報道したところからと謂われている。
リースとともにフォト・ドキュメンタリーの創始者として語られることも多いハインは、リースよりも25歳年若く――若いからといって、リースの仕事を知っていたか、あるいは、リースの仕事を踏まえていたのかどうかは分からないが――、リースが先鞭を付けスタイルを社会学的なアプローチで現在のドキュメンタリ写真に近い形にまで練り上げた人物、という評価になるだろう。
ハインは、国家児童労働委員会から委託された仕事を、任された仕事という域を超えた、使命感のようなものに突き動かされ追求していたが、その姿勢はスラム街を熱心に取材したリースと共通したところがあったといえる。
Wikipedia によると、ハインは、
アメリカの貧民街の写真や若年労働者の写真を多く撮影し、それを公刊することにより、社会に対してその改善の必要性を訴えた。
同時期の写真家ジェイコブ・リースと同様に、写真で社会を変えることができる、という社会改革家的発想を持った写真家であった
という。
第一次世界大戦の間から戦後にかけ、ハインはヨーロッパで米赤十字社救済事業の依頼で写真を撮影。
1920年代と1930年代初期には、《労働の肖像 (work portraits)》 シリーズを制作し、近代産業への人間の有用性を説いた。
1930年、エンパイア・ステート・ビルディングの建設の記録撮影を依頼され、労働者たちが鉄骨フレーム上で危険な作業を行う様子をハインも現場で危険を犯しながら撮影し、最高の見晴らしポイントを得ようと、地上から1000フィート上空に特性の籠を吊るしての撮影にも臨んでいる。
大恐慌の間、再び赤十字の依頼で今度はアメリカ南部で旱魃救済の写真を撮影し、テネシー川流域開発公社 (Tennessee Valley Authority, TVA) からの依頼ではテネシー川東部のアパラチア山脈近くに生きる人々の生活のドキュメンタリを撮影した。
また、以前教鞭をとっていたエシカル・カルチャー・スクールの教員組織の一員も務めている。
1936年、公共事業促進局 (Works Progress Administration, WPA) の国家研究計画 (National Research Project) の主任フォトグラファをとして雇われ、工業の変化とそれに伴う雇用への影響を調査したが、途中で政府と企業の後援を失い、調査は頓挫してしまった。
職を失ったハインはそのまま忘れ去られ、その後は新しい仕事にもありつけない有様だったらしい。
そういった状況の中に置かれていたハインであったが、1939年1月、美術批評家のエリザベス・マッコースランドと写真家のベレニス・アボットによって企画されたルイス・ハインの回顧展がニューヨークにあるリヴァーサイド美術館 (現ニコラス・レーリッヒ美術館) で開催された。
後援として、アルフレッド・スティーグリッツ、ポール・ストランド、エドワード・スタイケン (Edward Steichen)、ウィラード・モーガン (Willard Morgan)とバーバラ・モーガン (Barbara Morgan)、ジャーナリストのポール・ケロッグ (Paul Kellogg)、ソーシャル・ワーカーのフローレンス・ケリー (Florence Kelley)らが名を連ねる回顧展となった。
しかし、この回顧展がルイス・ハインの再評価につながることはなく――ハインの評価が高まるのは1960年代以降のこと――、年の末に35年連れ添った妻のサラを病気で亡くすと、ハインも翌1940年に病に倒れ、11月3日、ニューヨーク州の郊外のウエストチェスター郡 (Westchester County) にある村ドブス・フェリーのドブス・フェリー病院 (Dobbs Ferry Hospital) で亡くなった。
ハインが亡くなって十年以上経ってからのこと、ハインの回顧展の企画者の一人だったベレニス・アボットは、あの時点では協力関係にあったといっていいスティーグリッツやストランドについて、ハインを引き合いに出しながら、過度な芸術志向はピクトリアリズムの時代を反復するものだとフォト・ドキュメンタリストの立場から辛辣に評することになるが、金丸重嶺はそのアボットの評を引用しつつ、次のように語っている。
ベレニース・アボットも、「写真は自立すべきである」 という一文の中で、抽象的傾向にある作品は、再び絵画主義の危機に陥るであろうと警告して、次のようにいっている。
「すぐれたリアリストであるルイース・ハインは、一つの時代、一つの場所に焦点を合わせ、カメラと、その優れた洞察力によって、自分の周囲にある世界に反応していった。しかしスティーグリッツと、その弟子たちは、このハインの価値を認めずに、それを低くみて、ひびの入ったペンキの抽象などに傾いていった。これらの過度に単純化された抽象主義は、かつての、前衛的な絵画の模倣ともみられるもので、ひびわれたペンキという、形の上のデザインを求める写真家たちは、恐らく偉大な画家モンドリアンのあとを追っているのであろう」 (INFINITY VOL 7. No. 11. 1951 から)
これは明らかに、ストランドや、ウエストン、さらにシスキンドの作品などに皮肉な言葉を浴びせ、彼女のドキュメンタリーに対する見解を示したものであろう。
しかし、それが形象の抽象にみえてもドキュメンタリーであるかどうかは、現実に対する作者の解釈と態度によって決定されるもので、その表現の様式によって左右されるものではない。ルイース・ハインの価値は、もちろんその時代にあっては高く評価されるものであるが、今日における視覚言語としての写真は、そのボキャブラリーの範囲を次第に広め、表現の方法は写真の可能性を追って意識の深層にまで進展しているのである。
- 金丸重嶺 『写真芸術を語る』 より
ポストしたのは、
"Spinner in Globe Cotton Mill, Augusta, Georgia" (1909)
"Mamie Witt, 12 years old., Roanoke, Virginia" (1911)
"Young women (spooler) Kelser Mfg. Co., Salisbury, N.C, Salisbury, North Carolina" (1908)
"Rhodes Mfg. Co., Lincolnton, N.C. Spinner. She was 10 years old, Lincolnton, North Carolina" (1908)
"Lunch time, Kesler Mfg. Co. The little one carries the lunch, Salisbury, North Carolina" (1908)
"[Girl standing between looms.], Fall River, Massachusetts" (1916)
"Another of the many small children working in Mollahan Mills, Newberry, S.C, Newberry, South Carolina" (1908)
"A spinner in Clyde Cotton Mill, Newton, N.C., Newton, North Carolina" (1908)
"Spinners in a cotton mill" (c1911)
"Addie Card, anaemic little spinner in North Pownal Cotton Mill, Vermont" (1910)
の10点。
Wikipedia
Prints & Photographs Online Catalog - National Child Labor Committee Collection - About
George Eastman House Lewis Wickes Hine negatives Series
Child labor photographs - a set on Flickr
Lewis Hine Collection | UMBC
El Ángel Caído - Lewis W. Hine
Lewis Wickes Hine on artnet
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