Hellen van Meene (ヘレン・ファン・ミーネ)
1972年にオランダ西部北ホラント州 (Noord-Holland) のアルクマール (Alkmaar) で生まれた。
オランダの写真家。
主に思春期の少女のポートレイトを撮影している。
思春期の少女たちを撮影している写真家といえば、ジョック・スタージェス (Jock Sturges) やサリー・マン (Sally Mann) をまず思い浮かべる。
スタージェスにとって重要なのはまずなにより光と影であり、光の中で被写体をどう捉えるのか、あるいは陽の翳りの中で被写体をどう捉えるのかということが問題になってくるのだけど、その問題に取り組んだ結果としてあの透明感や静謐さがあるのだ、ということは、日本でも出版された写真集 『あの夏の最後の日 (The Last Day of Summer)』 や 『満ち足りた午後 Evolution of Grace』 を見れば明らかだろう。
夏の陽射しとその終わりを告げる陽の翳り――その中に佇み、あるいは寝そべる少女や女性たち (なかには男性や少年もいたりもするのだが、被写体は少女が圧倒的に多い)。
スタージェスは何がしかの物語を念頭に被写体を撮影しているわけではないのだけど、それが一冊の本にまとめられると、見る者に物語があるかのように、誰しもがかつて経験したあの夏の日がそこに永遠に封じ込められているように感じさせ、ノスタルジアへと誘われることになる。
そういった意味で 『あの夏の最後の日』 という写真集のタイトルは、スタージェスの写真について上手く言い表しているといえるだろう。
勘違いしてはいけないのは、スタージェス本人には郷愁を誘うことだけを意図していないという点 (いや、スタージェスがそう言っている訳ではないので断言するのはどうかと思うのだけど)。
だからといって、結構いるであろうスタージェスの写真を見て強烈なノスタルジアに襲われるという人たちを否定する気は無いし、第一、"The Last Day of Summer" というタイトルに郷愁への誘いが含まれていないといったら嘘になるだろう。
ただ、スタージェスの写真自体にはそういったものはない、と言いたいのだ。
郷愁を意図して織り込む表現はキッチュ化から逃れるのが難しく、全てではないが、多くの場合、無残な姿を晒すことになるのだけど、無論、スタージェスはそういったこととは無縁で、スタージェスにとって重要なのは光であり、影なのだ。
思いのほか長くなってしまったので、サリー・マンについては手短に。
サリー・マンは1984年から1991年にかけて自分の子供たち (長男ジェシー、長女エメット、次女バージニアの三人) をバージニア州の自然の中で撮影した。
というと、家族ならではの和んだ情感のある写真を想像するかもしれないのだけど、しかし、そこにあるのはサリー・マンの、ファインダー越しのどこか突き放した厳しい視線とそれを撥ね返す子供たちの姿であって、その撮影者と被写体の緊張した関係からは、家族ならではの和んだ雰囲気といったものは微塵も感じられない。
当然、子供ならではの無垢を謳いあげる物語なんてものはそこには存在せず、ただ、幼いながらも強い意志を持った者が、見る側をも緊張させる強度でそこに存在しているのだ。
サリー・マンは被写体に子供を、特に少女を選ぶことが多く、そういった写真にも実子たちとの間ほどではないにしても、緊張関係を見ることができる。
では、このヘレン・ファン・ミーネは被写体となる少女たちとどういった関係を結んでいるのか。
少女たちに寄り添うような、というのが近いようにも思えるけど、どこか違っている。
『STUDIO VOICE』 誌の2006年2月号は 「特集 写真の基礎知識 Photography Literacy」 という内容で、いつものごとく多くの写真家と写真集が取り上げられている。
特集内の 「GIRLS FANTASY」 という項目で取り上げられた写真家の一人がヘレン・ファン・ミーネで、富田秋子という方が
富 (・・・・・・) ヘレン・ファン・ミーネは、太ってしまった女の子や、矯正が目立ってしまっている女の子をそのまま撮影して、成長過程の少女のいびつさや、それに対する彼女ら自身の自己嫌悪を表現しようとしている。
- 『STUDIO VOICE』 2006年2月号 より
と、ヘレン・ファン・ミーネと少女たちとの関係について述べていて、なるほどその通りだなと思いつつも、それでもどこか納得することが出来ないところがあって、何がそう思わせるのか考えてみたのだけど、ジョック・スタージェスやサリー・マンについてはつい饒舌に語ってしまうのと対照的に、ヘレン・ファン・ミーネの写真を見ていると思考が空回りを始め、言葉が出てこない。
いや、言葉が出てこないというのは大袈裟で、スタージェスやサリー・マンの写真に比べ、ヘレン・ファン・ミーネの写真はどこか抽象的なところがあるように思え、だけど何故抽象的だと思ってしまうのかが自分でもよく分からず、途方に暮れてしまい、そこで思考が空転を始めてしまうといった方がいいだろう。
女性写真家が少女を被写体として選ぶ場合、ただ被写体として撮影するということもあるとは思うのだけど、少女と同じ目線 (つまり友人のような視線)、慈愛に満ちた視線 (優しい母親のような視線) で被写体と接する場合と、かつて自分がそうであった存在としての少女に厳しい視線を向ける場合とがあるように感じていて、サリー・マンなどは後者の代表といえる写真家といってよく、そのことについては先程触れたが、一方、ヘレン・ファン・ミーネの場合、「成長過程の少女のいびつさや、それに対する彼女ら自身の自己嫌悪を表現しようとしている」 にしては、写真から被写体との間に緊張した関係があるようには見えないのだ。
かといって、ヘレン・ファン・ミーネが友人や母親のような視点で被写体としての少女たちを撮影しているようにはどうしても見えない。
残るのは、ヘレン・ファン・ミーネが少女たちを被写体として対象化しているようでいて実は自身を少女たちと同一化しているのではないかという可能性で、そうだとすると、ヘレン・ファン・ミーネが成長過程における少女の心身の歪さとそれに対する少女たちの自己嫌悪に目を向けはするが、それを必要以上に暴き立てたりはせず、そのフラジャイルな存在の歪さをも美しく捉えていることに納得がいく。
ヘレン・ファン・ミーネの撮影した少女たちのポートレイトには、一歩間違えば、エスセティックな少女の肖像になりかねないようなところがあって、だけどそれはテーマによって抑止されているので、危ういバランスをとることが出来ている、ということなのだろう。
成長過程における少女の心身の歪さから目を背けず、美しいと思ってしまうのはそういった理由からなのだ。
ポストしたのは次の5点。
"Untitled #61" (1999)
"Untitled #31" (1995)
"Untitled #79" (1999)
"Untitled #25b" (1997)
"Untitled #86" (2000)
Hellen van Meene
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