E. J. Bellocq (John Ernest Joseph Bellocq、E. J. べロック)
1873年にニューオリンズ (New Orleans) でフランス系クレオールの裕福な家庭に生まれた。
1949年、ニューオリンズで亡くなった。
アメリカの写真家。
元々アマチュアカメラマンとして趣味で写真を撮影していたが、写真の腕前が知れ渡ると仕事が舞い込むようになり、プロの写真家として活動するに至った。
地元の会社のためにランドマークや船舶、機械の写真を撮影するのが主な仕事だったらしい。
それがいつしかアンダーグラウンドの仕事に手を染めるようになっていた。
ごく限られた知人たちのためにチャイナタウンの阿片窟やストーリーヴィル (Storyville、所謂赤線地帯) の娼婦の秘めやかな写真を撮影するようになったのだ。
このことは限られた間柄でしか知られていない仕事であり、写真も当然公開を前提に撮影されたものではなかったことから、べロックの死後、撮影されたネガと写真は破棄され、べロックも忘れ去られていった。
1951年、ジャズを楽しむためにニューオリンズを訪れた写真家のリー・フリードレンダー (Lee Friedlander) は、現地で8x10のガラス乾板のネガ八十九枚を見せられたのだが、お察しの通り、それは破棄されたと思われていたべロックが撮影した写真のネガの一部で、どういう訳か人手に渡って保存されていたのだ。
フリードレンダーはそれらを購入し――この偶然の出合いがなければベロックの発見は更に遅れるか、あるいは忘れ去られたままだったかもしれない――、自身で苦労しながら乾板をプリントする。
好事家の趣味であればこの時点ですべてが終わっていた可能性もあるのだが、プリントした写真はニューヨーク近代美術館 (Museum of Modern Art, MoMA) の写真キュレーターとして有名なジョン・シャーコフスキー (John Szarkowski ) の目に留まるところとなり、1970年、ニューヨーク近代美術館でベロックの展示会が開催され、時代の流れに埋もれていた無名の写真家が写真史の中に忽然と姿を現したことで、大きな話題となった。
富岡多恵子は1976年6月から1978年5月にかけて 『カメラ毎日』 という雑誌に写真についての時評を連載していたが、終了後纏められ、翌年、1979年の1月に 『写真の時代』 として毎日新聞社から出版された。
富岡多恵子はこの時評で、MoMA で開催されたべロック展のカタログ "E.J. Bellocq Storyville Portraits" を採り上げ次のように述べている。
以下はわたしの勝手な想像、もしくは妄想であるが、娼婦たちの美しい写真を撮ったベロックなる人物は、かなり娼婦たちと親しく、彼女たちに信じられ、安心してつき合える男だったのではないか。ベロックの写真を撮る目つきに、娼婦の生態を撮るなどという身がまえたものはなかった。アデールさん、一度いちばんいい服を着たところを撮ってあげようか、とベロックがいい、アデールはいい衣服を着て、貴婦人になったようにおすましする楽しさが、写真家と娼婦の間にあった。娼婦たちは、写真のモデルではなかった。ベロック氏は、彼女たちを金で買える女として扱わなかったし、かといってとくに賞賛するわけでもなかった。見下げもしないかわりに、見上げもしていなかった。MoMA で展示会が開催された頃はベロックの知人だった人々がまだ存命であったらしく、カタログにベロックについての座談会が掲載されていて、引用した文章に出てくるアデールというのは、座談会に参加したベロックの生前に親交のあった女性の一人なのだそうだ。
・・・・・・ベロックの前にいる娼婦たちは、ベロックを信じている。男と女の、色恋沙汰ではない親愛がそこにあるように思える。・・・・・・彼は、娼婦たちの、商品としてのオンナらしさの虚構を問題にしないで、「女の裸」 から立ちのぼる女らしさを見ているのである。その女らしさが美しいのである。 - 富岡多恵子 『写真の時代』
何を聞かれても、あの人はお行儀がよかったわとか、あの人は礼儀正しかったわ、としか答えないアデールがいるおかげで、座談会は不思議な面白さがある読み物となっていると富岡多恵子は述べている。
伊藤俊治は 『写真都市』 の中で、ダイアン・アーバスを、20世紀ドイツの職業や階級や環境で作り出される人間の類型を写真であぶり出したドイツの写真家アウグスト・ザンダーの正当な後継者であるとしながらも、アーバスは個々の小さな世界の更に内面へと踏み込んでいったという点において、外部に踏みとどまったザンダーと決定的に違っているとし、近年になるまで忘れ去られていた写真家 E. J. べロックへと遡行していく。
べロックもまた、特殊な世界に潜む人々に尽きることのない興味をそそいだ。ダゲレオタイプに残され、最近、リー・フリードレンダーの手によって再度印画紙にプリントされた写真のなかで、娼婦たちは、やさしく、無邪気で、かつ深い慈愛に満ちたまなざしをカメラに向けている。それは彼女たちのつつましさであると同時に、ベロックの彼女たちに対するやさしいまなざしの照り返しでもある。ベロックは、ただ娼婦の雰囲気を愛し、そこで彼女たちと雑談したり、ふざけあったりして写真を撮るのが好きだっただけだ。それ故、娼婦たちはベロックに生の姿を見せ、ありのままの素顔に宿る悲しみや喜びがそのまま、美しいたくさんの銀板にきざみこまれた。シャーコフスキーは、ベロックと娼婦たちの関係を写真における情事に例えた。E・J・ベロックからダイアン・アーバスへと連なる系譜、仮にそういったものがあるとして、その系譜はその後多様な分岐を見せていくことになるのだが、その分岐の一つにバロック的な爆発を起こす、特異な人物が現れる。
「これらの写真のなかで、ベロックは女たちとたくさんの不思議な情事をかわした。ジョニー・ウィッグスがそれに気づいたのは、ベロックの撮る女たちの特別な美しさのせいだ。無垢なほど、傷つきやすいほど、危険をおぼえるほど、忌まわしいほど彼女たちは美しい。目の前にいるように、現実的で、特異で、他のどんなものにもおきかえられず、そしていつのまにか観るものの心にはいりこんでいる。これらの写真の一枚、一枚がベロックと女たちの親密で不思議な関係の産物なのだ。技巧的な写真家はどんなものでもよく写すことができるだろう。けれど、それ以上の写真を撮るには、愛がなければならない。ある者は大地を愛し、ある者は陽の光を愛し、あるものは街を愛する。ベロックは、あきらかに、娼婦たちを愛したのだ、異常ともおもえるほどの没頭の仕方で。俗にいわれるように、もし彼がインポテンツであったとしても、ベロックはその眼と精神において、不屈で精力あふれる愛人だった。」 (E. J. BELLOCQ STORYVILLE PORTRAITS. TEXT BY JOHN SZARKOWSKI) - 伊藤俊治 『写真都市』
ジョエル=ピーター・ウィトキン (Joel-Peter Witkin) である。
ベロックの写真を見て僕がまず思い浮かべたのがウィトキンのことで、実際、調べてみるとやはり影響を受けたらしいということが分かったし、アーバスとウィトキンもアウトサイダーへの眼差しという点から容易に結び付けることができるのだが――そう、遡ることはできるのだ――、ベロックからアーバスという流れの先にこういった写真家が現れるであろうということは、なかなか予想できないのではないだろうか。
多木浩二は 『ヌード写真』 の 「写真が性をよこぎるとき」 という章で写真史における性の問題について論じ、「他者としての娼婦」 という節で娼婦という存在から写真と社会や人間との関係性について、ブラッサイとベロックという対照的な写真家を例に採り上げている。
まず、ブラッサイと被写体としての娼婦との関係について述べていて、ブラッサイの視線にはともすれば監視者的な視線に陥りかねないところがあるのだが、娼婦やその客、或は犯罪者や同性愛者といったアウトサイダーたちと共犯関係を結び、且つ、同情的な視線ではなく、彼らの存在自身を存在しえた時代の存在しえた場所、つまり夜の都市で捉えたことで、単に時代の風俗を記録しただけの写真ではない、魅力的な夜の世界を撮ることができたのだが、ブラッサイにはそういった写真を撮ることができる知性を持ち合わせた写真家であった。
それに対し、ベロックは知的な芸術家などではなかった、身体にハンディキャップを抱えていたと指摘した後に以下のように述べている。
・・・・・・その当時、ニューオルリンズのストーリーヴィルには娼家が立ち並んでいた。彼はそこに出入りして娼婦たちに肖像を撮ってあげていたのだろう。社会の他者である娼婦たちは、もうひとりの他者である彼には気を許していたようである。ベロックがこれらの写真を世にだす筈がないことも、彼女たちは知っていたのだろう。写真のモデルの名が分からなくなってしまったのは当然である。これらの写真はこうした親密な相互関係の中で生まれている。
これらの写真についてはすでに多くの人が語っているが、現在でもまだ撮られることのある娼婦の写真に比べ、技巧的なところは全くないが、その自然さ、のびやかさにおいてこれに並ぶものはない。女たちはある場合にはヌードで、ある場合には下着で、ある場合には盛装して肖像を撮ってもらっている。繰り返すようだが、こうした写真が可能になったのは、撮るものと撮られるものの両方が、いわば支配的な社会にとっての他者であったことである。彼ら同士でなんらの支配関係もなかった。多分、性差もなかったろう。こうした関係が、女が主体であるヌード写真を生み出しえたのである。彼女たちが生きている世界でしか彼女たちは主体でありえなかったし、そのかなで共通する視線で見られたときだけ、「見られるための女」という位置を受け入れなければならない社会関係を、一時的に免れていたのである。 - 多木浩二 『ヌード写真』 より
笠原美智子の 『ヌードのポリティクス』 を読むと、第二章 「オルタナティヴ・ヌード宣言」 の 「視姦論――写真ヌードの近代」 でヌード写真における撮影者 (男) と被写体 (女) との非対称的な関係性について述べているのだが、その中にベロックに触れてた箇所がある。
被写体の身体をいかに徹底してモノとして扱い抽象化しようとも、撮影者と被写体の関係性が深ければ深いほど、そこに交わされる生気を伝えずにおかない。そこににじみ出る関係性が深ければ深いほど、見るものにとってそれは匿名の 「女」 のヌードではなくなる。と笠原美智子は述べているのだが、ベロックのハンディキャップを抱えた身体がそのまま 「男性性を剥奪された存在」 = 「女性に信頼される存在」 へと何の疑問もなく置き換えられているような、ベロックをある文脈の中で都合のよい存在として利用しているような印象を、先に引用した三者に比べ強く感じ、読んでいて違和感があった。
ヌード写真史においては珍しい笑顔のヌード写真を残したE・J・ベロックは短軀であった。彼はストーリーヴィレの娼婦たちのよき友であった。発育不全で小人のような体つきが、彼女たちに性的脅威を感じさせずに住んだのかもしれない。彼女たちの絶対の信頼を得て、ベロックは彼の前で自由に伸び伸びと寛ぐ女たちのヌードを撮影することになる。 - 笠原美智子 『ヌードのポリティクス』
以上、批評の中に登場するベロックを幾つか並べてみたが、次にフィクションの中に登場するベロックに触れ、お終いとしよう。
カナダの小説家マイケル・オンダーチェ (Michael Ondaatje) の小説 『バディ・ボールデンを覚えているか (Coming Through Slaughter)』 では、邦題に登場しているバディ・ボールデンという実在した伝説のジャズメンの友人であり、重要な人物としてベロックを登場させているが、この小説の中でのベロック像はここまでに引用してきた文章からイメージされる人物像とは大きく異なった印象を与える。
それは例えばこんな風にである。
ベロクの写真。「水頭症」。八十九枚のガラス板が残っている。写真を見よう。想像しよう。部屋の中を歩き回る異形の男、三脚を杖にしてくるりと体を回転させる優美さ、娼婦の部屋の鏡台の写真、その鏡にとめられた女が捨てた赤ん坊の写真、壁の石膏のキリスト像。比べてみよう。釘で打ちつけられたキリストの両手と、まもなく部屋に戻ってきて彼に写真を撮られた三十歳の裸女の雑に縫われた盲腸の傷跡とを――彼女は彼がすでに赤ん坊と鏡台と十字架像と敷物の写真をとってしまったことを知らない。一ドル余計にくれたら恥ずかしい格好をしてあげると女がもちかけると、ベロクはむっつりと、いや、そこの壁ぎわにただ立ってくれ、今度はペチコートはなしだという。女の顔に瞬間浮かんだ侮蔑の表情をとらえるためにシャッターを切り、それから何分も待つあいだに、女はしだいにカメラとカメラマンと自分の格好を意識しはじめ、むき出しの腕と首を恥ずかしがりながら、本当に久しぶりに、子供の頃に描いていた将来の夢を思い出す。彼はそれもまたカメラに収める。
彼の写真に見えるものは、そんなはるかな過去にまで一瞬のうちに後戻りしてしまった女の心だ。誰のものかわからない美しい袖に抱かれて、愛と富につつまれて行進する自分の未来を思い描いていた過去の一点へと。三脚ほどの身長もない奇形の男に撮影されながら、それらすべてを思い出している。それから彼は金を払い、カメラを片付け、彼女は一瞬の夢を失った。写真に写っているのは壁にもたれた人間の姿だけ。 - マイケル・オンダーチェ 『バディ・ボールデンを覚えているか (Coming Through Slaughter)』 より
あるいは、ルイ・マル (Louis Malle) が監督した映画 『プリティ・ベビー (Pretty Baby)』。
この映画のベロック像は、ベロックという名前と写真家であること以外、実在したベロックとは面白いほどかけ離れている。
なにせ、娼家が立ち並ぶストーリーヴィルで人目を忍んで娼婦のあられもない姿を撮影していた小男の物語が、ハリウッドフィルターを通すと、少女娼婦となる少女とイケメン写真家の悲恋になってしまうのだから。
映画ではヒロインの少女ヴァイオレットをブルック・シールズ (Brooke Shields) が演じ、その少女と恋に落ちるイケメン写真家べロックをキース・キャラダイン (Keith Carradine) が演じていていた。
Wikipedia
Photography-Now - International Fine Art Photography Index - Bellocq E.J
ruguru: E.J. Bellocq
読み込み中
クリックでキャンセルします
画像が存在しません
読み込み中
クリックでキャンセルします
画像が存在しません
読み込み中
クリックでキャンセルします
画像が存在しません
読み込み中
クリックでキャンセルします
画像が存在しません
読み込み中
クリックでキャンセルします
画像が存在しません
読み込み中
クリックでキャンセルします
画像が存在しません
No comments:
Post a Comment